日記:「まったく個人的であり、だからこそ奥底で普遍に通じる、そんな力が」

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ちょうど赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)読み終えた。個人の記憶との対話から戦後の歩みを読み解く秀逸な論評。「まったく個人的であり、だからこそ奥底で普遍に通じる、そんな力が」と結ばれる。先験的な理念から批判する大上段ではないそのスタイルに新しい息吹感じる。

「私は、どちらかと言えば現行憲法を護った方がよい、と考える。その理由は簡単で、自国の政権とその暴力運用能力を、全く信じていないからである。…憲法に戦争ができないというタガがはまっていたほうが、ずっとましである」(赤坂真理)。しかし同時に「0と1の間にあるもの」でなければならない。

例えば、大江健三郎さんに代表される立場を真理の立場から現世を撃つ、言い意味での原理主義とすれば、そしてそのこと自体を僕自身も憧憬し尊重するのだけど、その原理主義的アプローチにも限界を感じる。

その限界とは……そしてそれは現代日本反知性主義に由来するものですけど……受容の広がりのなさのことですが、とても、響きにくさというジレンマを感じてしまう。

その意味では、戦後生まれの作家の赤坂真理さんが、真理の立場から現世を撃つのではなく、自身が生きた歩みの「違和感」から、大江健三郎さんが「撃つ」べきものを、違う方向から「撃つ」ことに、少し光明を見出した感がある。




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たとえ押し付けであったとしても
 私は、現行憲法、特に第九条を護りぬこうという人たちに素直に与することができずにきた。彼らの多くが言う「日本人の平和に対する願いが憲法に実った」という言い方に、嘘とは言わないまでも省略がありすぎるから。
 日本人は戦争で疲弊してもう戦争は二度としたくないと思ったかもしれないが、それが憲法に実ったわけではなく、あくまで他人の言葉がその気持ちにフィットしたにすぎない。また、日本人はその後、対岸の戦争でもうけられるならそれを歓迎した事実も私を傷つける。また、日本人自身が書いたなら、あのようなクリアで美しい言葉には、決してならず、どこかで誰もが責任回避できるような曖昧な文言になっただろうとも思う。
 しかし一方で、「アメリカの押し付けだから破棄すべきだ」という物言いにも、与する気にはなれない。他者が書いたということと、内容の価値は、いったん別ものとして精査すべきであると思う。もらおうが拾おうが押し付けられようが、いいものはいい、と言ったっていいはずだ。
 なぜ正直に、
 「私たちがつくったものではないが、美しく、私たちの精神的支えとなってきた」
 と言えないのだろうか。日本人がそう世界に向けて言えれば、それは日本人の度量を示すことにもなる。うまく敗けることは、ただ勝つよりおそらくむずかしい。プライドの示し方は、強さの誇示だけではない。男らしさの誇示でもない。
    −−赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』講談社現代新書、2014年、265−266頁。

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