日記:「役に立っている」という発想
いま、本当に考えておかないといけないことは、「役に立っている」という発想ではないかと思う。「役にたっている」には「社会」が冠されますが、この国では「政府」に収斂していく。
例えば、あらゆる宗教は、特に「政府」に対して「お騒がせ」として必ず出発する。しかし、公認されるや否や「役に立っている競争」を始めてしまう。ここに瞠目せよという話です。
「社会にとって役に立っている」って簡単に言いますけど、社会って何やん?って誰何すれば、それは「国民国家」(の政府)に収斂されるものではない訳ですよね。そうすると、社会やら公共というものを、協同する中でもっぺん、作り直していかなければならない。役に立つ「自体」は全否定はしませんけれども。
そのことは同時に、近代市民社会において「良き市民」とは何かを、国家を超越する視座から考えないといけない話でもある。
僕自身は、これまで、日本宗教史における、いわば日本的なるものへ落ち着くエートスに対する「反撃」なるものばかりに注目しておりましたが、最近は、これは落とし穴だったのじゃないかと考えている。反撃を政府より先に締め付けるのは、教団の方だからね。
「翼賛」プロセスの解明もこそ第一の課題かも知れない。