覚え書:「「戦争の世紀」研究 現代史と国際政治の視点から/12 太平洋問題調査会 日本外交の苦闘刻む」、『毎日新聞』2016年03月31日(木)付。

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「戦争の世紀」研究
現代史と国際政治の視点から/12 太平洋問題調査会 日本外交の苦闘刻む

毎日新聞2016年3月31日 東京夕刊

1927年のIPR第2回ハワイ会議への出発を前に、記念撮影する日本IPR代表団と渋沢栄一評議員会会長(左から3人目)ら
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移民問題満州問題のはざまで 歴史的な均衡を失い孤立へ

 1924年、米議会での「排日移民法」成立により、ワシントン体制下の日米協調外交は打撃を受けた。日本が常任理事国を務める国際連盟に米国は参加しておらず、両国をつなぐ新たな討議の場が必要とされた。「国際連盟治外法権区域」とも評されたアジア太平洋地域に、翌年創設される「太平洋問題調査会」(The Institute of Pacific Relations=IPR)が、その役割を担った。IPRは欧州中心の国際連盟南北アメリカの汎米(はんべい)会議と並び「世界3大国際会議」に数えられた。

 当時、日米間の移民問題に加え、中国でも、西欧諸国に対する不平等条約の撤廃要求と並行した排外主義的ナショナリズムが顕在化していた。そうした中、IPRの主たる目的は<アジア太平洋地域が抱える問題を共通の課題としながら(中略)国際比較研究や討議を通じて問題の本質や解決法を模索し、それを通じて共通理解、相互理解、東西間の異文化理解を深める>ことであり、最終的に<ヨーロッパ世界に於(お)いて起ったような大戦争が(中略)勃発することを回避する方途を模索する>(片桐庸夫『太平洋問題調査会の研究』慶應義塾大学出版会)ことと認識されていた。

 目的実現のため、会員各自は会議の成果に基づいて自国の政治家や経済人、教育者、宗教家などの社会的有力者に働きかけ、あるいは自らの啓蒙(けいもう)努力により、世論に影響力を及ぼすよう期待された。背景には、第一次世界大戦終結時にW・ウィルソン米大統領が提唱した秘密外交禁止の流れに沿い、政府の外交独占に対する「外交民主化」の理念があった。

 25年7月、ホノルルで開催された第1回ハワイ会議には米本土とハワイ(のちに米国IPRに統合)、フィリピン、日本と朝鮮、中国に加え、英自治領のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの9カ国・地域IPRから有識者が集まった。27年の第2回ハワイ会議には国際連盟もオブザーバーとして参加した。

 IPRに参画したのは民間の自由主義的、国際主義的な知識人、実業人やキリスト教団体関係者であり、米国のロックフェラー財団などが資金面を支えた。日本IPRには「日本資本主義の父」と呼ばれた実業人、渋沢栄一(1840−1931年)が深く関わり、統括機関「中央理事会」には日銀総裁、蔵相を歴任した井上準之助(1869−1932年)が名を連ねた。

 日本IPRは第1、2回の会議で、自国の移民政策の歴史的経緯や排日移民法による世論憤激の背景を解説し、米議会の人種差別待遇の不当性を印象づけることに成功した。しかし、29年の第3回京都会議では、中国IPRが満州(現中国東北部)問題を提起する可能性が高まっていた。

 従来、08年の「高平ルート協定」などにより、日本が対米移民を自主規制する代わりに、米国は日本の満州特殊権益を認めるという暗黙の了解が存在した。しかし、秘密外交禁止と中国のナショナリズムの高揚が事態を一変させていた。

 国内で開催される史上最大の国際会議を控え、日本側は官民挙げて周到な準備に取り組んだ。<京都会議に臨む基本態度は、当時満州に条約上獲得していた権益を最小限度のこととして護持する主張を行うことであった>(同)。政治学者の蝋山政道(ろうやままさみち)らによる満州の実地調査の結果が英文の小冊子にまとめられ、各国のIPR会員を招いた事前の現地視察も行われた。

 円卓会議では、南満州鉄道(満鉄)の松岡洋右(ようすけ)が日清戦争以来の歴史的経緯から日本の立場を説明し、米欧の会員の理解を獲得した。<しかし、長期的な観点からみて(中略)恒久的解決に途を開くといえるものでは決してなく、一種のその場しのぎの意味合いを持つに過ぎなかった>(同)

 当時、白人中心の世界観はなお根強く、国際連盟常任理事国の地位を手にしたものの、日本は依然、米欧とアジアの間に位置する存在だった。米欧の理解を過信した満州権益への固執は微妙な均衡を狂わせ、日本は双方から孤立していく。

 33年に国際連盟を脱退した日本にとってIPRは唯一の外交窓口だったが、39年の第7回から参加を中断した。戦前のIPRの歴史には、白人支配体制に入り込めず、移民問題満州問題のはざまで負のスパイラルに陥った日本外交の苦闘の跡が刻まれている。IPRは第二次大戦後の61年まで存続するが、東西冷戦構造が固まった50年代初頭、戦前のソ連参加などを理由に米国IPRがマッカーシズム赤狩り)の標的となり、急速に影響力を失った。【井上卓弥】=毎月1回掲載します
    −−「「戦争の世紀」研究 現代史と国際政治の視点から/12 太平洋問題調査会 日本外交の苦闘刻む」、『毎日新聞』2016年03月31日(木)付。

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http://mainichi.jp/articles/20160331/dde/014/010/003000c





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