日記:教育基本法の改悪に始まるこの十余年の珍走は、特定秘密保護法、安保法、そして共謀罪によって完結。これで「自由」で「民主」な「公明」正大な平成「維新」のユートピアが完成ですか
この国はどうなっちゃうんだろう。 pic.twitter.com/EYX4EpQITk
— 三浦雅也 (@boogiedaijing) 2017年5月19日
法務委員でもないチンピラのような議員の掛け声で共謀罪法案を強行採決。
— Hideyuki Hirakawa (@hirakawah) 2017年5月19日
審議の中身の無いまま30時間を浪費しただけ。
ほんとに酷い国に堕ちた。
教育基本法の改悪に始まるこの十余年の珍走は、特定秘密保護法、安保法、そして共謀罪によって完結。これで「自由」で「民主」な「公明」正大な平成「維新」のユートピアが完成ですか(棒読み
— 氏家法雄 (@ujikenorio) 2017年5月19日
奥さん、大勝利ですよ。
「ナチスの手口」ではなく「大日本帝国の手口」。 https://t.co/O1V4gyjIMU
— Hideyuki Hirakawa (@hirakawah) 2017年5月19日
共謀罪や森友問題、加計学園問題などで「国民は怒ってる」「そんな説明では国民は納得しない」的な定型句をよく聞くんだけど、僕は使わない。本当の問題は国民のマジョリティが政権支持をやめるほど「怒ってない」し「あんな説明で納得してしまう」ことにあるわけだから。
— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2017年5月19日
日本は今でも一応民主制なので、主権者のマジョリティが安倍政権を支持しなくなるならば、安倍政権は倒れる。安倍政権を危険だと考える私たちは、安倍政権にあれこれ影響を与え動かそうとするよりも、主権者を動かす方法を模索する必要がある。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2017年5月19日
政府の数々の不正を断罪できない共謀罪法案にはむろん反対だが、この法案を強行採決したのちに安倍が退陣したら、加計疑惑、森友疑惑、露骨な憲法違反など露骨な売国的共謀がこの法によって真っ先に断罪されなければならない。特定の団体、メンバーにだけ有利な法なんて法ではない。
— 島田雅彦 (@SdaMhiko) 2017年5月19日
さすが公明党。 https://t.co/qpz8qrMiv7
— mold (@lautrea) 2017年5月19日
マスコミ某社が取材に。「初代・2代会長が治安維持法違反で投獄され、初代が獄死した歴史を持つ学会が、なぜ賛成するのか」と。「歴史を正しく学ぶと反対になる。ところが、学会は権力に抗すると大変なことになる、上手に付き合ったほうが安全という学び方をしたのだろう。宗教としては堕落だね」。
— 二見伸明 (@futaminobuaki) 2017年5月20日
公明党支援してたことを今日ほど悔いた日はない。
— ひよこ@共謀罪反対です (@Z5vH5gw4vv9JToN) 2017年5月19日
今回の共謀罪の一件。中枢部から反対の動きがない以上、内部で留まって頑張っても無意味であり、一般会員は会から自主的に離れるしかないと考えます。創価学会は創立100周年を待たずして、実質的に消滅しました。今日はその記念日というかお葬式の日になりましたね。
— ただいき (@tadaikey) 2017年5月19日
今日の北海道新聞
— tomato (@Zangi53) 2017年5月19日
厚田でインタビュー
恥ずかしいですよ
どうしてくれる公明党、執行部
これ見ても支援する能天気学会員。一般紙購読してる?
今頃、活動家は東京か
(ため息) pic.twitter.com/pSwQZ4KafB
(´-`).。oO 今日の安倍政権の強行採決は戦後70年を最悪の形で締め括る暴挙。そして庶民の党であった公明党が完全に愚民の党と化した証拠でもある。僕は心底公明党を軽蔑する。心底公明党を嫌悪する。支持者も同様に。
— Masa da Oldskooler (@itsgroovymasa) 2017年5月19日
平和や自由がおびやかされる時に、立ち上がり声をあげる為に創価学会があるのだと、素朴に真剣に思っていた。
— 谷内 一宣 (@mXOzHzHuHvFWydL) 2017年5月19日
僕は何を見誤ったのだろう。
城も石垣もまぼろしだったのか?
内通者の手引きで、なす術もなく陥ちていく巨城を、呆然と見ている気分。
連帯と分かち合いを育てるためにともに働きましょう。協力こそが、よりよく平和な社会を建設することを助けます https://t.co/9F6y8KuiOE
— 教皇フランシスコ(邦訳) (@chuokyo_pope) 2017年5月2日
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ヘルベルト・ペルモーレあて
[一九一六年末]
ヘルベルト君、
きみが手紙をくれたことはとても嬉しかった。
でもきみの手紙は事物を即物的に伝えているだけで、ぼくらの間柄を考えれば必要になる根本的な前提条件を、無視しかかっている。ぼくの返信はその条件を踏まえていればこそ、見られるとおりのものに、つまりきみが要求すると同時に実行してもいるような種類の即物性にしんそこから異を唱えるものに、なっているわけだ。
夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。ぼくは、ことばでもって闘争しようとつとめてみて(トーマス・マンが、あの下劣な「戦時下の思想」を公表していたしね)、そのときにわかったのだが、夜に抗して闘争する者は、夜のもっとも深い暗黒をも動かし、夜をも発光させなくてはならぬ。漸進的なこの巨大な努力のなかでは、ことばはひとつの段階にすぎず、そしてそれが最初の段階であるようでは、けっして最終の段階にはなりえない。
ジュネーヴでのぼくが眼にうかぶ。室内に、トランクの上に腰かけて。ドーラときみがいる。ぼくが主張している、生産的なものは(しかし批評も同様に)あらゆる意味において支持されなければならない、そして精神の生活はもっぱらすべての名とことばと記号でもって探究されなければならない、と。数年来、この夜のさなかから、ヘルダーリンの光がぼくの光明となっている。
何もかも、批評するには大きすぎる。すべては光をはらむ夜であり、血を流す精神の肉体だ。同時にまた、何もかも、批評するには小さすぎる。何ひとつありはしない。闇、暗黒そのもの、尊厳、だがそれらを考察しようとすれば、眼のまえはぼやけてくる。ぼくらの途上でことばが出現するかぎりで、ぼくらはそれに至純にして至聖の場を用意し、それをぼくらのもとに憩わせようとするだろう。ぼくらはそれを、ぼくらがあたえうるかぎりでもっとも貴重な、究極的な形式におさめて、保存しようとする。芸術、真理、法。たぶんすべてはぼくらの手から奪われるが、そうとしても、形ならぬ批評は奪われまい。これをなしとげるのは言語のわざではなく、各人の頭部をめぐる光輪の、はるかな円環のわざだ。ぼくらの仕事のほうは、言語と出逢うところで問題になる。言語のありかは、生命と密接に一体化しようとする事物、実証的なものだけに限られており、そしてこのものは、批評の光、善悪を判別する光を保持することなく、あらゆる批評的(クリテーイッシュ)なものを、危機(クリージス)を、内部へ、言語の核心のなかへ写し入れている。
真の批評はその対象に逆らわない。それはある種の化学的物質のように、他の物質を分解しながら破壊せずに、これの内的な性質を解明する、という意味でだけ作用する。こういうしかたで(特異体質者ふうに)精神的な事物に反応する化学的物質が、光だ。この光は言語のなかには現われない。
精神的事物の批評とは、真と偽との判別である。しかしこれは言語のわざではない。せめて遠まわしに隠れて、ユーモアとなるときのみ、言語は批評的でありうる。そのばあいには、模写されたものが光と接触し、分解する、という特殊な批評の魔術が、そこに現出するのだ。真が残る、灰として。それをぼくらは笑う。あふれるまでに光り輝く者こそが、その光芒でもって、ぼくらが批評と呼ぶあの天上からの曝露をも、やってのけるだろう。まさしく偉大な批評家は、驚異的なまでに真を見ていた。たとえばセルバンテス。
もはやほとんど批評をほどこす余地がないほどに真を見た大作家のひとりに、スターンがいる。ことばへの畏敬だけでは、まだ批評家は生まれない。対象への畏敬、目だたない真への。たとえばリヒテンベルク。そうなのだ、批評を表出しよう、言語化しようとするならば。これは大人物にだけできることだ。ひとびとは概念を濫用している。レッシングは批評家ではなかった。
きみに心をこめて挨拶する。
ヴァルター
ぼくの仕事をどれか読む気があるかい? ぼくはつぎの諸論文を書いた。
古代人の幸福
哀悼劇(トラウアーシュピール)と悲劇(トラゲーデイエ)
哀悼劇と悲劇における言語の意味
言語一般および人間の言語について
ーー『ヴァルター・ベンヤミン著作集14 書簡I 1910ー1928』晶文社、1975年、76-78頁。
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↑ 『公明新聞』2017年05月20日(土)付1面。