「宗教社会学は、どの分野の社会学でもそうであるように、科学であろうとしている」 B・ウィルソン 宗教社会学 

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宗教社会学は、どの分野の社会学でもそうであるように、科学であろうとしている。この点に関して、宗教社会学はいったい何を探求しようとしているのか、そして宗教社会学で探求可能なことがらの背後には何があるのか、ということを認識することが重要になる。
 第一の点についていえば、宗教社会学はその出発点として、ある宗教運動、または、あるひとびとの宗教的性質を系統的に記述する。信条に関する陳述、儀礼に関する諸規則、そしてそれらを正当化する根拠等はすべて基礎的なデータとして、すなわち、現前の現象として取り扱われる。宗教社会学は、この現前の現象として観察されたレベルから出発しなければならない。社会学者は、その信条の「真偽」の検証にはかかわらない。また、諸儀礼の効果にも関心を抱かない。また、ある伝統についての多様な解釈について判定を下そうともしない。社会学者はまた、宗教者が認める実践や理念を正当化する主張に挑戦することはしない。これらのことがらすべてを、社会学者はデータの一部として受け入れなければならないのである。社会学者は、現れてくる社会的レベルから、たとえばまずはじめに、その宗教を信じる人々自身からもたらされる一軍の情報に基づいて作業を始める。社会学者の関心が、宗教的信念の性質、または宗教的な教説や儀礼の影響力、回心の過程、組織の特性、宗教的実践の規則性、入信によって生ずる諸結果、聖職者と俗信徒との関係、宗教的正当化の様式と機能等々、その他何であえれ、社会学者は、個々の宗教者や宗教集団自身の解釈を研究の出発点としてまず採用しなければならない。しかしながら、もちろん社会学者は、ある宗教の教義を信徒と同様に学習しようとはしないし、また、門弟になろうともしない。もしそのようにしたならば、彼は必然的に社会学者でえあることをやめることになろう。しかしそれでも、少なくとも社会学者は、信徒たちが学んでいるものは何であるかを正確に理解しようとすべきであるし、可能な限り彼らが理解していることがらを彼ら自身の術語で理解しようとすべきである。
    −−ブライアン・ウィルソン(中野毅・栗原淑江訳)『宗教の社会学 東洋と西洋を比較して』法政大学出版局、2002年、14−15頁。

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発刊時に購入しただいぶ前の著作ですが、宗教社会学の導入としてはこのブライアン・ウィルソン(中野毅・栗原淑江訳)『宗教の社会学 東洋と西洋を比較して』(法政大学出版局、2002年)はよくできている。

一流の宗教社会学ブライアン・ウィルソン(Bryan Ronald Wilson,1926−2004)の手によるものですが、下手な『○○入門』的な、大学の教養科目の教材よりも格段に優れている。

ただ、学部でこれを使うと、

「難しい」

……などと顰蹙をかって、「教材」ではなく、「参考文献」にしなさい!

……などと言われそうですが、とりあえず、マニフェスト的箇所を抜き書きしておきます。



【覚え書】【研究ノート】アマルティア・セン 国籍と市民権 アイデンティティ

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 現代における国籍と市民権の重要性を否定することはできないが、われわれは次のようにも問うてみなければならない。国境を越えたひとびとのあいだの関係をどのように理解すればいいのだろうか、と。こうした人々のアイデンティティにはとりわけ民族や政治的な単位による区分「以外の」分類、すなわち、階級、ジェンダー、あるいは政治的・社会的信条などに基づいた連帯関係が含まれている。職業的アイデンティティ(医者であるとか教師であるとか)やそこで生まれる国境なき責務を、どう説明すればいいのか。こうした関心、責任、義務などは民族的アイデンティティや国際関係に付随していないばかりか、場合によって、国際関係とは逆の方向に向かうこともある。「人間」であるという、おそらく最も基本的なアイデンティティでさえ、正しく理解すればわれわれの視野を拡大してくれるものだ。われわれは分け持っている人間としての責務は、「民族」や「国民」の一員であることによって成り立っているわけではない。核爆発の余震が続く六月のカルカッタで、この講演の中身をあれこれ考えていると、「人と人との間で」国境を越えて直接通い合う共感や連帯感には、互いによそよそしい国家同士の民族中心主義を実質上超えるような展望があるように思われたのだった。
 事実、国境を越えた人の往来には、国家間の関係からは出てこないような規範や規則があるものだ。これは、急速にグローバル化しつつある、独自の規則と慣習をもった世界経済における市場や交換にまさに当てはまることである。法的規制が必要とされる場合には、当然、その処理にあたって国内法が依然として重要である。それでも、世界的な貿易では、独自の倫理、規則、規範を持った当事者間の直接的交渉が行われている。この相互交渉は、国家間の関係に限定されないような集団的相互関係によって、支持されたり、吟味されたり、批判されたりすることになる。
 これ以外のアイデンティティもある。医師ならこう自問するかもしれない。医者と患者の共同体に対して、それが同一の国家に属しているとは限らない場合、どんな形のコミットメントをもつべきかと(ヒポクラテスの誓いは、はっきりとであろうと暗黙のうちにであろうと、いかなる国家的契約によっても媒介されなかったことを覚えておこう)。同様に、フェミニストの活動家からこう思うだろう。自国の女性のみならず、女性一般の権利剥奪を訴えるためには、どのように関わるべきか、と。スーダンにおける性差別撤廃運動に参加しているイタリア人のフェミニストは、まずイタリア人としてではなく、フェミニストとして活動しているのである。
 先に論じたように、アイデンティティや所属関係の違いから、相反する要求同士の対立が起こるかもしれないので、承認された義務だからといってもその一つ一つが対立する利害関係のすべてに対して優先できるわけではない。そのために、各アイデンティティ間の優先順位に関する合理的な判断が−−機械的な公式ではなく−−必要とされるのだ。すべての所属関係をひとつの支配的なアイデンティティ−−国家組織あるいは国民の一員−−に服従させてしまえば、多様な人間関係が持っている力や幅広い関係性が見失われてしまう。国家の国民としての政治的信条は、それはそれで大切である。しかしこの政治的信条が他の集団とのつながりに基づく信条や行動の仕方よりも優先されることはない。
 今日のところ、われわれが生きているこの世界において、もっとも望ましい正義の形態とは、どんなものかについて十分論を尽くして述べることはできない。今言えることは、これから進むべき方向は、違った人間関係や集団を巻き込みながら互いに重なり会うような原初状態であって、総合にぴったりと調和しあう局面を持つすっきりとした二層構造ではない、ということである。このような方向に進めば、おそらく、異なった忠誠心に基づく正義同士が互いにぶつかり合う可能性が高くなるでろう。しかしながら、正義論というものを、実際の行動計画に関するアルゴリズムの形をした青写真ではなく、個人や(「特に」政府を含む)団体が直面する倫理的な要求をはっきりさせるのに役立つ政治的思考法として理解するなら、こうした大雑把な定式も、われわれの複合的な利害関係やアイデンティティにちょうど相応しいものになるであろう。
    −−アマルティア・セン(細見和志訳)『アイデンティティに先行する理性』関西学院大学出版会、2003年。

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【覚え書】【研究ノート】ジジェク『ルソー、ジャン=ジャックを裁く−−対話』 情念 幸福 自己愛 利己愛

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 素朴な情念はすべて直接にわれわれの幸福をめざしているので、それに関係のある目標しかわれわれをかかわらせず、自己愛のみを原理としているので、本質的にまったく優しく穏やかなものなのです。しかし障害によって目標からそらされると素朴な情念は到達すべき目標よりも避けるべき障害のほうにかかずらって性質を変えてしまい、怒りっぽく憎しみに満ちた情念になる。まさにこのようにして、善なる絶対感情である自己愛が、利己愛、すなわちたがいを比較させ選り好みさせる相対感情になるわけです。利己愛のもたらす喜びはただただ否定的なもので、利己愛はもはやわれわれ自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです
    −−ジジェク小西嘉幸訳)『ルソー、ジャン=ジャックを裁く−−対話』白水社、1979年。

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テスト4

以下、センタリング。


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