我国ニ在テハ宗教ナル者、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ



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 ではキリスト教に対する態度はどうであったか。キリスト教に対する迫害、ないし禁教の動きは秀吉に始まる。家康の対キリスト教政策もほぼこれを踏襲するものであって、海外貿易の利はおさめ、キリスト教は禁ずるというものであった。家康のブレーンの僧崇伝のしるした一六一三年(慶長十八年)のキリシタン禁令が禁教の理由としてあげたのは、(1)キリスト教は侵略的植民政策の手先である、(2)在来の神仏に対する信仰を誹謗する、(3)人倫の常道をそこなう、(4)日本の法秩序を守らない、ということであって、秀吉の禁教の理由とほぼ同じであった。スペイン船の水先案内から洩れた情報にもとづいて秀吉は禁教政策をとった。だが彼は本当はスペインの侵略をおそれていたのではなく、それを口実として利用したにすぎない。この場合もそれと同じだろう。だとすれば国内秩序の維持ということが禁教の最大の理由であり、この点ではキリスト教一向宗以上に怖るねこ宗教勢力とみなされていたのである。
 その後島原の乱がおこり、キリスト教は少数の隠れキリシタンを除いてほぼ完全に弾圧された。もう政治権力に対抗しうる宗教はなかった。またこの乱以後、仏教の諸寺院が戸籍係の役目をして、政治権力の末端組織の役割を果たすようになってからは、仏教の無力化は目にあまるものとなり、表面の繁栄のうちに仏教はその宗教的生命を失っていった。
 このことはどう評価されるべきか。近代化の迅速さという観点からは、宗教戦争の可能性がなくなったこと、あるいは宗教が政治や学問を妨害することがなくなった、等の利点もあげられよう。しかし宗教のもつ政治を批判し浄化する可能性が消え、この宗教の無力は、明治憲法起草当時の伊藤博文の「起案ノ大綱」にみられるように、天皇制設立の間接の原因となっていることも見逃せない。すなわち伊藤はヨーロッパの憲法政治を精神的に支える機軸としてのキリスト教に注目するとともに「我国ニ在テハ宗教ナル者、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ」として、宗教の代替物を皇室に求め、天皇の大権を普通の立憲君主国家における君権では考えられないほど強化し、いわば天皇制の疑似宗教化をはかった。
    −−源了圓『徳川思想小史』中公新書、1973年、14−16頁。

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近世〜現代の日本宗教史の本質をつく一文なので、抜き書き。

しかし、いわゆるキリシタン禁教の4つの理由は、1890年(明治23年)に勃発した内村鑑三不敬事件に端を発する「教育と宗教の衝突」論争における、キリスト教排撃論とほとんど同じ「理屈」だから驚いてしまう。

そしてその4つの理由は、江戸最初期においても、近代日本においても「口実」にすぎない点も同じだ。その口実によって何を実として取るのか。

すなわち「国内秩序の維持」にある。

宗教のもつ「地の塩」をそぎおとしていくのが日本宗教史の歩みとっても過言ではない。

宗教への無関心としての無宗教であることが「フツー」とされ、宗教によって「耕された」批判精神は、全て「反社会性」として片づけられてしまう。
※もちろん、論外の事例はあるがここでは横に置く。

では、日本における「宗教の社会性」の特色の一つはどこに見いだすことが可能なのか。それはまさに「国内秩序の維持」を遂行することにほかならない。例えば、「政治権力の末端組織の役割を果たす」ことが、宗教の公共性、社会性と同一視される風潮を権力と民衆自体が構築してきた。


批判によって機軸を建てることも可能であるにもかかわらず……。


この点は忘れてはならないだろう。


教育と宗教の衝突 - 国立国会図書館デジタルコレクション



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覚え書:「書評:放射能問題に立ち向かう哲学 [著]一ノ瀬正樹 [評者]鷲田清一」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。




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放射能問題に立ち向かう哲学 [著]一ノ瀬正樹
[評者]鷲田清一(大谷大学教授・哲学)  [掲載]2013年02月24日

■「不明なこと・偽の問題」明確に

 放射線被曝(ひばく)の人体への影響という、深刻で、しかも風評が飛び交う議論に、〈不寝番〉の役を買って出る哲学研究者が、ようやっと現れた。
 被災地外で子供たちを守るためになされるそれ自体は正しい行動が、被災地の物産や瓦礫(がれき)の搬入を忌避する行動へと裏返り、それがやがて被災地差別や復興阻害につながってゆくという不幸な光景が、被曝限度の法令基準が出された頃から浮き立ってきた。これは、福島の原発事故を機に、不条理、不安、不信といった「不の感覚」と、科学による「客観的」評価という、被曝をめぐる二つのスタンスが、それぞれにぶれたまま捻(ねじ)れあうところに起因すると、著者は見る。安全/危険について何がどこまで確実に言えるかを冷静に見究めないと、無用の被害が増すばかりだ、と。
 そこで著者が取り組むのは、「低線量放射線を長期に被曝したら、がん死する」という言明における「たら」が、いったいどのような論理的性質をもつものかを、「因果性」をめぐる哲学の議論をベースに解き明かすことである。精緻(せいち)をきわめた議論をへて導かれるのは、因果関係というものがつねになんらかのシナリオを下敷きにしていること、安全/危険についての議論には(線量の測定から確率の読みまで)断定の不可能性ということが本質的に含まれていることだ。問題はだから、どれほどのリスクかという「程度」にあり、それにもとづいて「より正しい」シナリオをどう模索し、行動に反映してゆくかにある。
 予断や「不」の感情に振り回されることなく、何がまだ不明なのか、何が偽の問題なのかを明確にするという「ハエ取り器」の仕事を、著者は哲学の研究者として、そして被曝の不安にさらされた地域の一住民として、見事にやりとげている。世の〈不寝番〉たるべき哲学を象徴するあの「ミネルヴァの梟(ふくろう)」はまだ死んではいなかった。
    ◇
 筑摩選書・1680円/いちのせ・まさき 57年生まれ。東京大教授(哲学)。『確率と曖昧(あいまい)性の哲学』など。
    −−「書評:放射能問題に立ち向かう哲学 [著]一ノ瀬正樹 [評者]鷲田清一」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。

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覚え書:「書評:20世紀の椅子たち 椅子をめぐる近代デザイン史 [著]山内陸平」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。




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20世紀の椅子たち 椅子をめぐる近代デザイン史 [著]山内陸平
[掲載]2013年02月24日

 近代デザイン史上特筆すべき99脚の椅子を、写真とエッセーで紹介する。座り方のわからないアート性偏重のものはなく、どこかで見かけたようなものばかり。建築家フランク・ロイド・ライトの事務用椅子といった大物の作品だけでなく、背中合わせに組み合わせられる空港の待合椅子のような公共空間向け製品も登場する。京都工芸繊維大学名誉教授のインダストリアルデザイナーである筆者の目配りを感じる。
 デザイナー紹介や作品の位置づけと、筆者自身のエピソードを、事典にも昔話にも傾かない奥行きある文章にまとめあげる。そこから立ち上るのは、もっとも身近なデザインともいうべき椅子を介した時代の空気である。
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 彰国社・3675円
    −−「書評:20世紀の椅子たち 椅子をめぐる近代デザイン史 [著]山内陸平」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。

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