日記:端的に言えば、安倍政権倒閣で未来は明るくなるなどとは思ってはない。それでも今、可視化された権力と戦わずしてどうするの?

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憲法を考える:自民改憲草案・自由:中 「ほどほど」では、自由でない
2016年5月20日


 「ほどほどの自由」

 自民党憲法改正草案の「自由」に対するスタンスを追うと、そんな印象を持つ。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」だと明記した現行憲法97条は、削除。表現の自由を定めた21条には「公益」や「公の秩序」を害することを目的にしてはならないとの文言が追加され、「自由」は念入りに制限を掛けられる。

 だが、「ほどほどの自由」しか許されない社会とは、どんなものなのだろう? 今年1〜3月、TBS系列で放送されたテレビドラマが、ひとつの答えを与えてくれる。

 「わたしを離さないで」

 原作は英国の作家カズオ・イシグロの長編小説。他人に臓器を提供する目的で作られた「クローン人間」が主人公だ。

 人為的に作られたということ以外「普通」の人間とほぼ変わらない主人公たちは幼少期から「あなたたちは臓器提供の使命を持った天使だ」と教え込まれる。クローン同士の恋愛や、生活の自由はあるが、臓器提供の拒否は決して許されない。

 ドラマでは原作にない独自の設定として、そんな「ほどほどの自由」を疑う少女「真実(まなみ)」が登場する。真実は仲間とひそかにクローンの権利を訴える活動を計画する一方、周囲に順応しがちな主人公に、私たちの人権は侵されている、と伝えようとする。「誰にだって幸せを追求する権利があるのよ」。紙切れに記されたのは現行憲法13条。

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 美しいはずの「他者」や「公」への奉仕が個人の身体や心を侵食していく不気味さ――。

 自民党伊吹文明衆院議長が4月、講演でこんな発言をしていたことを思い出した。

 「皆が公のことを考える強靱(きょうじん)な日本人をつくらなければならない」

 今の日本社会を「パチンコ屋の前で良い台を取ろうとして、開店を待っていてもなんとか食べていける国」と嘆く伊吹氏。憲法に直接関係する発言ではないが、自民党議員からは幾度となく、個人が自分のことばかりを主張し、公の秩序が乱れているのではないかという危機感が表明されている。

 憲法学者の山元一・慶大教授は言う。「公の秩序と個人の自由を対立させ、『公』に『自由』を服属させた途端、権利としての自由の価値は根幹から破壊される。もはやそれは、自由とは言えません」

 ドラマの第6話。真実らの権利活動は警察の知るところとなる。追いつめられた真実は街頭で手首を切り、自分は天使などではなく人間だ、と訴える。自分の心も身体も、自分のもの。それが許されないなら「どうか何も考えないように作って」。

 「ほどほどの自由」は、自由ではない。自ら命を絶った真実の姿が、その「真実」を私たちに突きつけてくる。

 (高久潤)
    −−「憲法を考える:自民改憲草案・自由:中 「ほどほど」では、自由でない」、『朝日新聞』2016年05月20日(金)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12366312.html


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覚え書:「今週の本棚 鴻巣友季子・評 『屋根裏の仏さま』=ジュリー・オオツカ・著」、『毎日新聞』2016年04月03日(日)付。

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今週の本棚
鴻巣友季子・評 『屋根裏の仏さま』=ジュリー・オオツカ・著

毎日新聞2016年4月3日 東京朝刊
  (新潮クレスト・ブックス・1836円)

戦時下の「写真花嫁」たち
 ジュリー・オオツカはデビュー十数年、寡作の書き手だが、米国のPEN/フォークナー賞や仏国のフェミナ賞をはじめとする国際文学賞を受けており、いま最注目の気鋭作家の一人だ。カズオ・イシグロのような日本生まれの作家ではなく、カリフォルニア在住の日系一世の父と日系二世の母との間に生まれ、元々は絵画を専攻しており、彼女の小説の作風を「墨絵」に例える評者もいる。ディティールや内面描写を排し、「そっけない」と言っていいほど飾り気のないミニマルな短文を重ねていく。登場人物にはしばしば名前がない。

 『屋根裏の仏さま』は第一作の『天皇が神だったころ』に続き、日本を題材にしている。20世紀初頭に写真だけの見合いで、米国や南米の日本人移住者の元へ嫁いでいった「写真花嫁」たちの物語だ。作中の一章「Come,Japanese!(来たれ、日本人!)」がイギリスの文芸誌『グランタ』に掲載された際には、同作への「応答」の形で、日本の中島京子が日本人側からの視点で「Go,Japanese!」という短編を発表した。

 本書の語り手の人称は「わたしたち」だ。一人称複数形で語られる(語られだす)小説には、近年では、カメラアイの手法を導入し事実上の三人称多視点機能をもつ村上春樹の『アフターダーク』や、土地が語っているような辻原登の『許されざる者』、古くはコンラッドの『闇の奥』、フローベールの『ボヴァリー夫人』などがある。それらの「わたしたち」が、ナレーターまたはギリシャ悲劇のコロス(語り手集団)的な存在として、作中人物を外側から語るのに対し、『屋根裏』の「わたしたち」は語り手であると当時に、ストーリーの当事者でもある。たとえば、こんなふうに書かれる。

 「船でわたしたちは、新しい生活に必要なありとあらゆるものを詰めたトランクを抱えていた。初夜のための白い絹の着物。普段着の色鮮やかな木綿の着物。(中略)母からもらった銀の鏡。母の最後の言葉が今も耳に響いた。あなたもいつかわかるわ、女は弱し、されど母は強しってね。」

 特定の女性のことが書かれるときも、主語は「わたしたち」だ。多種多様な体験や言葉(個人が発した台詞(せりふ)はゴシックで記されているようだ)が、断片的にはっきりした区別なく混ざりあっている。名前は時々出てくるが、ひとつの個性をもったキャラクターとして育っていくことはない。一種の集合記憶のように混沌(こんとん)としている。

 夫となるハンサムな若者の写真を胸に抱いてやってきた「わたしたち」は、「ニット帽をかぶり、みすぼらしい黒い上着」を着た中年の男性集団に出迎えられる。写真は二十年前のものであり、「わたしたち」には過酷な畑仕事や重労働が待っていた。雇い主の男に手をつけられることもあった。子どもをたくさん産みすぎて難産になり、亡くなる者もいた。

 第二次大戦下で、「わたしたち」にはこれまでと違う試練が訪れる。それまでの独特な語りのスタイルは終盤で突然、変貌をとげる。「わたしたち」はどのように去っていったのか、それは永遠に知る由がない。

 本書が共訳の形なのは、ファンも多かった岩本正恵さんが訳出の途中で若くして逝去されたからだ。本作の原書を読んで魅力に引きこまれ、日本への紹介に尽力されたという。あとを引き継いだ小竹由美子さんとの見事なコラボレーションとなった。(岩本正恵、小竹由美子訳)
    −−「今週の本棚 鴻巣友季子・評 『屋根裏の仏さま』=ジュリー・オオツカ・著」、『毎日新聞』2016年04月03日(日)付。

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今週の本棚:鴻巣友季子・評 『屋根裏の仏さま』=ジュリー・オオツカ・著 - 毎日新聞



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覚え書:「今週の本棚・この3冊 移民・難民 安田浩一・選」、『毎日新聞』2016年04月03日(日)付。

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今週の本棚・この3冊
移民・難民 安田浩一・選

毎日新聞2016年4月3日 東京朝刊
 

 <1>排除と抵抗の郊外 フランス<移民>集住地域の形成と変容(森千香子著/東京大学出版会/4968円)

 <2>在日外国人 第三版−−法の壁、心の溝(田中宏著/岩波新書/886円)

 <3>ストロベリー・デイズ 日系アメリカ人強制収容の記憶(デヴィッド・A・ナイワート著、ラッセル秀子訳/みすず書房/4320円)

 パリの同時襲撃事件から4カ月、今度はブリュッセルがテロの舞台となった。おそらくまた、偏狭なナショナリズムが活気づくに違いない。移民や難民が「敵」として位置づけられ、叩(たた)かれる。テロと差別は表裏一体の関係だ。社会を分断し、人を、地域を、内側から壊していく。だからこそ、対立と偏見を煽(あお)るための好戦的で威勢の良い言葉から私は距離を置きたいと考えている。

 森千香子の新著『排除と抵抗の郊外』は、こうした欧州の悲劇を「グローバル・テロリズム」対「民主主義」といった単純な図式に乗せることはできないと説いている。フランス社会におけるマイノリティとマジョリティの「亀裂」をテーマとした本書で、キーワードとなるのは「郊外」だ。この場合の「郊外」とは場所としての概念を超え、フランスでは「移民」のメタファーとして存在する。家賃の安い団地が林立し、移民集住地域として知られるパリ郊外を、多くのメディアは「テロの温床」「犯罪多発地帯」だと指摘してきた。しかしそれはフランス社会の主流が異端を「排除」した結果でもある。テロ実行犯の多くがこうした欧州の「郊外」で育った「ホームグロウン」である事実は、テロの背景に差別と偏見があることを示唆する。

 では、足元の日本を見てみよう。ヘイトスピーチが野放しにされ、在日コリアンやシリア難民を中傷するような書籍がベストセラーとなる国だ。トランプを嗤(わら)えない。田中宏は、半世紀前にアジア各国からの留学生と出会ったときから、一貫して日本社会で生きる外国人の心情に寄り添ってきた。マイノリティを囲む溝を埋め、立ちはだかる壁を壊すために戦ってきた。『在日外国人』はそうした田中の個人史でもあり、日本社会が公に認めてこなかった排除と差別の記録でもある。ヘイトスピーチがけっして新しい問題ではないことが浮き彫りにされる。

 移民や難民の存在を考えるとき、忘れてならないのは、日本もまた移民の送り出し国であり、同時に迫害を受けてきたという歴史的事実である。『ストロベリー・デイズ』は第二次大戦中、敵性外国人として強制収容所に送り込まれた米国在住日系人の証言をまとめたものだ。日系人は「ジャップ」と蔑(さげす)まれ、「出ていけ」と恫喝(どうかつ)された。

 排除される側に立った経験をも有している日本こそが、本来、先頭に立って差別と戦わなければいけないはずなのだ。
    −−「今週の本棚・この3冊 移民・難民 安田浩一・選」、『毎日新聞』2016年04月03日(日)付。

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今週の本棚・この3冊:移民・難民 安田浩一・選 - 毎日新聞








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覚え書:「今週の本棚・新刊 『東アジアに平和の海を』=前田朗、木村三浩・編著」、『毎日新聞』2016年04月03日(日)付。

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今週の本棚・新刊
『東アジアに平和の海を』=前田朗木村三浩・編著

毎日新聞2016年4月3日 東京朝刊
  (彩流社・2376円)

 日韓、日中関係は、歴史問題や領土問題をめぐって論争が絶えない。ナショナリズムに火が付き、冷静な議論ができない場合も少なくない。

 本書の副題は「立場のちがいを乗り越えて」とし、「竹島」「尖閣諸島」「領土、国民、ナショナリズム」の3章にわたり、異なる立場の論者が登場した座談会を収録している。

 第1章は、木村三浩一水会代表)▽康熙奉(カンヒボン)(在日本朝鮮社会科学者協会)▽朴炳渉(パクピョンソビ)(竹島=独島問題研究ネット代表)の3氏。第2章は、木村三浩▽陳慶民(チェンチンミン)(東京華僑総会副会長)▽岡田充(たかし)(共同通信客員論説委員)の3氏。第3章は、木村三浩▽金東鶴(キムトンハク)(在日本朝鮮人人権協会事務局長)▽四宮正貴(四宮政治文化研究所代表)▽清水雅彦(日本体育大学教授)▽鈴木邦男一水会最高顧問)の5氏が論じた。司会は3章とも編者の前田朗東京造形大学教授(肩書等はいずれも同書から)。

 前田氏は「時に自らの所見を押し出しつつも、相手の意見を尊重し、聞くべき時は聞き、論ずべき時は論ずるという冷静な議論を心がけました」としており、政府の公式見解とは違った主張も盛り込まれ、対話の材料となると思われる。(坪)
    −−「今週の本棚・新刊 『東アジアに平和の海を』=前田朗木村三浩・編著」、『毎日新聞』2016年04月03日(日)付。

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今週の本棚・新刊:『東アジアに平和の海を』=前田朗、木村三浩・編著 - 毎日新聞


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東アジアに平和の海を: 立場のちがいを乗り越えて
前田 朗 木村 三浩
彩流社 (2016-01-07)
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覚え書:「記者の目 ブログ発 待機児童問題=野口由紀(京都支局)」、『毎日新聞』2016年4月6日(水)付。

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記者の目
ブログ発 待機児童問題=野口由紀(京都支局)

毎日新聞2016年4月6日 東京朝刊

 京都市から届いた「入所不可」の通知を次男と見つめる女性=京都市伏見区で昨年5月、野口由紀撮影

保活に翻弄、転換を

 2月にインターネット上に投稿された匿名の「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログを機に、待機児童問題への関心が高まっている。当初は「確認しようがない」と答弁を避けた安倍晋三首相も、保護者らからの批判の高まりに「待機児童ゼロを必ず実現させる」と軌道修正した。国は「待機児童解消加速化プラン」を進めるなど、無為無策だったとは言わない。だが、この問題は国が1994年に待機児童数を調査し始めたころから20年以上も未解決の政治課題だ。子供の預け先がなくて困っている人、「保活」に翻弄(ほんろう)される保護者らの気持ちを真摯(しんし)に受け止め、質の保証と量の拡大に本腰を入れてほしい。

「ゼロ」達成は実態かけ離れ

 私は主に京都市で待機児童問題を取材してきた。市は2014年4月に「待機児童ゼロ」を達成したと発表したが、1歳だった娘を保育所に預けるために走り回った私は耳を疑った。13年夏、区役所に相談に行くと「遅い」とせかされ、無認可も含めた保育所見学に出かけ、「保活セミナー」に参加。就職活動のような状態に疲れ、職場復帰できるか不安だった。そうした実感とは異なる数字の発表を受け、実態を取材してきた。

 同市伏見区のパート女性(35)は、市立小に通うダウン症の長男(7)の集団登校に付き添いが必要なため、14年と15年に次男(3)の保育所を自宅近くの2カ所に絞って申し込み、いずれも落ちた。だが、市は両年とも「待機児童ゼロ」。なぜか。そこには数字のマジックがあった。

 どこまでを「待機児童」と捉えるかは国が大枠を決めている。親の仕事や病気などによる「保育の必要性」が認められない児童や、幼稚園の預かり保育の利用に転じた児童のほか、「特定の保育所などを希望した」例は除かれる。女性はここに当てはまるとされた。京都市では、ゼロだった14、15年ともそれぞれ931人、637人が入所を希望したのに待機児童とは数えられなかった。女性はようやくこの4月からの入所決定の通知を得たが、「もやもやが消えることはない」と話す。

 「待機児童」の定義はあいまいで、自治体に基準を設定する裁量がある。これが自治体間の表向きの待機児童数の差を生んでいる。15年4月まで3年連続で待機児童数全国ワーストの東京都世田谷区は「育休中」を待機児童に含めるが、横浜市京都市などは原則として除外している。

 世田谷区の担当者は「政令市では除外している例が多いが、保育所に子供を入れたいということでは同じだ」と算入の理由を語り、「国で言う『待機児童』は実態を反映しておらず、数字的にあまり意味がない」と明かす。

 厚生労働省は3月末、待機児童に算入されていない「潜在的待機児童」が約6万人(昨年4月1日時点)いると明かした。同じ時点の「公式」待機児童約2万3000人の約2・6倍もの人が除外されている。

 さらに、この数字に含まれない人もいる。京都市西京区の専業主婦の女性(26)は長女(5)を保育所に預けて働こうとしたが、入所には仕事の内定が必要とされた。一方、就職するにはまず子供の預け先の確保が求められる。結局、構造的矛盾から抜け出せないまま保育所を諦め、15年春から幼稚園に入れた。日給で働く建設作業員の夫の収入では費用は重く、女性は「保活も就活ももっと頑張ればよかったか」と自分を責める。

 京都市は新たな保育施設を整備する財源確保を理由に市営保育所の民営化を進める。だが、「量の確保」だけでは対応できないこともある。市営は公的役割として、14年3月末時点で市内の民間保育所の約3倍の割合で障害児を受け入れている。弱者にしわ寄せが行かない配慮も必要だ。

応急処置では質の保証疑問

 「何が少子化だよクソ」とブログの言葉は乱暴だが、共感が広がったのは子育て世代の「哀歌」だからだろう。「ママ友同士でも入所の手の内は明かせない」「妊娠前から保育所に入りやすい地域に引っ越した」。都市部に住む同世代の友人から聞く保活の異常事態はこの国では常識だ。

 厚労省は緊急対策を発表したが、「一時預かり」の活用や市区町村に職員配置基準の弾力化を求めるなど、応急処置と規制緩和策が目立つ。これまで以上の効果や質の保証を見込めるか疑問だ。

 児童福祉法第2条は「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う」と公的責任をうたう。この言葉をかみしめ、十分な財源確保を行う根本的な解決策に本気で知恵を絞る時だ。
    −−「記者の目 ブログ発 待機児童問題=野口由紀(京都支局)」、『毎日新聞』2016年4月6日(水)付。

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記者の目:ブログ発 待機児童問題=野口由紀(京都支局) - 毎日新聞





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