「考える」ことの中におけるについて

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……ここでは「考える」ことの中における<遊び><息抜き>について少々触れてみたい。
 まず頭を柔軟にすることである。一つの思想運動をやっていると一定方向だけ見つめて他のことは全くわからないということになりがちだ。世の中のことをわからないで「社会を変革する」だとか、一般の人よりも勉強もしないで、「無知蒙昧な大衆を啓蒙する」などと大言壮語をしがちだ。一般の人を啓蒙しようなどと言うのなら少なくともそれ以上に勉強し、努力しなければならない。それと同時に頭を柔らかくして感受性を鋭くしておかなくてはならない。そうでなければ、発想を促すことは出来ないし、それを原稿、運動に投影することも出来ない。
 自分の場合は、何度も言うように、年齢、職業、思想、研究分野の違う各種の人々と意識的につき合うようにしている。そこから吸収できるものは何でも吸収する。自分では若いつもりでも知らず知らず頭がかたくなっていることがあるので年代的に若い人間と話す機会を持つ。下らないと思うかもしれないがこれは精神を若く保ち、発想を促す基になる。下らないものでも、どんどん見聞し、その中で感覚的に参考になるものは取ればいい。あとの大部分は思い切って捨てることである。
 下らないことのついでだが、テレビや映画、漫画などは思い切って下らないものを見る。これは意識的にやっているというよりも、好きだからといった方がいいのかもしれない。日曜日の「新婚さんいらっしゃい」や「TVジョッキー」などは欠かさずに見てるし、コメディも好きだ。思い切って笑えるものは精神衛生上いいのだ、などと自分で理屈をつけている。それに下らないものの中に、世の中のことが本当に分かる、そんな瞬間があるような気がする。
 映画も時間のある限り見ることにしている。最近は本と同様に映画も一つの思想だと思わされるものがある。そうしたものは必ず見るようにしている。本を読んで考え、ヒントを得ると同じように映画を見てヒントを得、発想を促されることもあるからだ。だが忙しい時に映画館に行ったりすると時々罪悪感におそわれることがある。仕事をしなくてはならないし、もっともっと勉強しなくてはならない。それなのに楽をして映画なんかを見ていいのだろうかと。これは他の息抜きをしている時もそう思うのである。イライラして、これでは息抜きにもならないし、精神衛生上も悪い。
 だからこれも「仕事」だと思うようにしたのである。あるいは「義務」だと言ってもいい。
    −−鈴木邦男『行動派のための読書術』長崎出版、1985年、176−178頁。

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大学に自分の研究室があるわけでもありませんし、研究所にオフィスがあるわけでもありませんので、学問の仕事場はどうしてもウチになってしまいます。

それでも狭い賃貸住宅ながらも、1室をあてがわれていることには家人に感謝をしなければならないのですが、そこで仕事をしていて、つまり、狭い意味で言えば、教育というよりも、教育に関する仕込みとか、自分自身の専門研究の仕事をしていると、やっぱり「煮詰まってくる」ものです。

これはウチであろうが、研究室であろうがオフィスであろうが、どこでやっていても「煮詰まってくる」ことはあるのですが、「煮詰まってくる」とどうしてもそれを解きほぐしてやらなければなりません。

終日何もない一日であれば、散歩にでかけるとか、それこそ映画を見にでかけるとか、ウチから出て気散じをすることが可能ですけれども、数時間後に市井の仕事とかアポイントがあったりすると、なかなか、おいそれと足を延ばすこともできず、どうしても、ウチのなかでそのぉ〜気分転換をしなければなりません。

ですから、ちょいとした息抜きにネットショッピングを楽しんだり(この場合購入するのが目的ではないのでウィンドウショッピングと同じ)、お気に入りのDVDを見たり、音楽を聴いたり、漫画や小説を楽しんだりするわけですが……

ウチでやっていると分が悪いことって結構あるんです。

そう、くつろいでいる時に、家人が急に入ってきて

「遊んでいる〜」

……という訳です。

いや、別に遊んでいるわけではなく……というのが正直なところなのですが、

家人が急に入ってくるときに限って、だいたい「煮詰まってくる」精神や体を解きほぐしているときになってしまうのが不思議なものです。

ですから「遊んでいる」⇒「何もやっていない」という方程式が成立するようでして……。

ホントは、そんなことないんですけどねぇ。

しかしそうした気散じといいますか、もっと幅広く言えば、世界総てから学ぶという市井がないと、細かく重箱の隅をつつくような研究もキチンとしたものにならないはずですから、それすべてが「学ぶ」「探求する」うえでのやり方の一つなんですけどね。

冒頭には、新右翼鈴木邦男(1943−)さんの、しかもかなり古い一節からですけれども、

「これも「仕事」だ」

あるいは

「「義務」だ」

……と捉えるようにはしているのですが、それを口に出して家人に言うのは、、、、

どうしてもはばかれてしまいます。

いやはや。






⇒ 画像付版 「考える」ことの中におけるについて: Essais d'herméneutique




行動派のための読書術―よりよい<知的生活>のために (1980年)
鈴木 邦男
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