マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったのは非常に有名な言葉でありますけれども
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新しい形の自己疎外 思想史にはこういう例がしばしばある。マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったのは非常に有名な言葉でありますけれども、マルクスのように、非常に膨大な著作を書き、自分の思想というものをきわめて体系的な形で展開した学者でさえ、マルクス主義あるいはマルクス主義者についてのイメージが現物から離れて自立的に発展していくのをどうすることもできなかった。そこに私はマルクス主義者でないという彼の嘆声が生まれるわけであります。いわんや今日のように、世界のコミュニケーションというものが非常に発展してきた時代にありましては、大小無数の現物は、とうてい自分についてのイメージが、自分から離れてひとり歩きし、現物よりもずっとリアリティーを具えるようになる現象を阻止することができないわけであります。むしろ或る場合には、現物の方であきらめて、あるいはその方が都合がいいということからして、自分についてのイメージに逆に自分の言動を合わせていくという事態がおこる。こうして何が本物だか何が化けものだかがますます分からなくなります。現代にはこういう一つの非常に新しい形態の自己疎外が起こっているといえるのじゃないか。ところがこういう世界的な傾向と同時に、日本では特にそういう化けものの横行を許す事情があるのじゃないか、われわれと環境との間につくるイメージの壁を厚くする条件があるのではないかという気がするのであります。
−−丸山眞男「思想のあり方について」、『日本の思想』岩波新書、1961年、128−129頁。
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いや、別に「何が?」っていうわけじゃないし、何か「特定」の対象について、それおかしいンじゃアねェか、ゴルァっていうわけじゃないんだけど、このところ、物それ自体よりも、物を祭り上げる連中の騒音がうるさいと感じることがよくあるんだけど……、たぶん、これは僕一人でもないと思うんだけど……、
とにかく、ここ数年、息苦しくなってきているような感があるんですよ。
いや、先に言及したとおり、別に「何が?」っていうわけじゃないんですけどね( ・ω・)∩
僕ひとりの杞憂ですめばいいはなしなんですけどね。