が、ほとんどの「規則正しさ」は幻想でなりたっている。というのも、学校だって、会社だって、それがなければじぶんが滅びるというものではないのだから







        • -

 じぶんがとても不安定だと感じながら、あるいはじぶんの存在がとても希薄になっていると感じながら、しかもそのことにじぶんが気づいていないとき、ひとはじぶんに一つの「規則正しい」かたちを求める。が、ほとんどの「規則正しさ」は幻想でなりたっている。というのも、学校だって、会社だって、それがなければじぶんが滅びるというものではないのだから。そして、それを核にじぶんをつくっていると、「規則正しさ」とじぶんの存在との区別がつかなくなる。だから、定年を迎え、毎日おなじ時刻に出勤する必要がなくなったとき、ひとはとても不安定になるのだ。酷薄にも「濡れ落葉」などと言われるように、それを軸としてじぶんを測れる「妻」という別の定点が必要となるのだ。
 だから、そのときのために、いやいまのために、存在がゆるんでいることに不安を感じないよう、じぶんを鍛えておかないといけないと思う。「不規則」であること、あるいはむしろ「無規則」であることを楽しむことが、案外重要なのかもしれない。
    −−鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』講談社現代新書、1996年、42−43頁。

        • -

外在的規範は、じぶんじしんを律するものとして存在する場合、それは有意義に機能するものですが、それ自身が目的となってしまうと、「ちょいと待てよ」という事態になるのが「外在的」なるものの落とし穴なんでしょう。

昨今のエスノセントリズム国家主義の高潮の背景にも、おなじような「じぶんがとても不安だと感じながら」という風潮をひとつの背景にあるのでしょう。

幻想にしか過ぎないものを「実体」として取り違えてしまったパターンというのが実は多いのではないか、そんなふうに思える昨今です。
※といって肯定できるわけではないのですけど。

ま、外在的な幻想を全否定しようとは思いませんが、それを有意義に機能させると同じく、「『不規則』であること、あるいはむしろ『無規則』であることを楽しむ」流儀というのは同じように持ち合わせておくべきなんでしょうねぇ。

ただ私の場合は、後者の方へ重点を置きすぎているのが難点ではあるわけですが(苦笑