なにかを知るということは、身軽に飛ぶということではなく、重荷を負って背をかがめること


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 私が学校教育や読書から得られる知識に重きをおかないのは、やはり同じ理由からです。人々は知識を得るということに、根本的な錯覚をいただいている。人々はなにかを知っているということによって、より高く飛べるようになると思っているようです。いままで知らなかった世界が開けてくると思うのでしょう。が、それは反面の真理にすぎない。なるほど、峠の上に立った人は、谷間にうごめいている人より、周囲をよく見わたせるかもしれません。が、こういうことも考えてみなければならない。一つの峠に立ったということは、それまで視界をさえぎっていたその峠を除去したことであると同時に、また別のいくつかの峠を自分の目の前に発券するということであります。あることを知ったということは、それを知る前に感じていた未知の世界より、もっと大きな未知の世界を、眼前にひきすえたということであります。
 さらに、それは、そのもっと大きな世界を知らなければならぬという責任を引き受けたことを意味します。とすれば、なにかを知るということは、身軽に飛ぶということではなく、重荷を負って背をかがめることになるのです。人々は知識というものについて、その実感を欠いてはいないでしょうか。
    −−福田恆存「教養について」、『私の幸福論』ちくま文庫、1998年、81−82頁。

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16日の月曜日で短大の哲学の授業、最終講義。

2011年度は怒濤の一年だったと思いますが、前期の履修生のみなさま、そして後期の履修生のみなさま、くだらないわたくしの講座を受講してくださいまして、先ずはありがとうございます。

授業中にも言及しましたが、わたし自身、あまり「教員」の“自覚”がありませんから(汗、ヤクザ?のようなものの謂いで驚かすことが多々ありましたが、ご了承下さいまし。

さて……
こちらも何度も繰り返しましたが、知識が潤沢=教養ではありません。

教養の軸を扱う哲学の授業でしたし、そしてそもそもの前提からいえば「知識はないよりはあった方がいい」ことはいうまでもありませんし、「漢字を知らない」ことは「知識がないから恥ずかしいこと」と道義ではありませんが、知らないのであれば「知る努力」を怠ることは恥ずかしいことです。

それをふまえたうえで、「知識が潤沢=教養」ではない。

だとすれば、いくつかあるうちのその一つの核とは何でしょうか。
やはり、それは、知ることによって責任ある人間として生きていくということにつきると思います。

自覚的な生をどれだけ選択することができるのか……ということでしょう。

知識は増えれば増えるほど、確かに、裾野で見通すという状態よりは、峠の頂から俯瞰する位置に立つということでしょう。

たしかに、三六〇度のパノラマを見通すことが可能になると思います。
ただし、それは同時に自由であるという意味でもありません。

思想家・福田恆存(1912−1994)は、「あることを知ったということは、それを知る前に感じていた未知の世界より、もっと大きな未知の世界を、眼前にひきすえたということであります さらに、それは、そのもっと大きな世界を知らなければならぬという責任を引き受けたことを意味します。とすれば、なにかを知るということは、身軽に飛ぶということではなく、重荷を負って背をかがめることになるのです」と指摘しております。

この矜持を持ち合わせながら、世界から退くのではなく、格闘するなかで、教養が“醸し出されてくる”人間へと成長していきたいですね。

そのために、大学という「手段」はあるはずです。
資格をとってナンボ……それが悪いわけではありませんよ、念のため……で終わらない「全体人間」としていきていく、世界との有機的な関係を放擲することなく、そのなかで、自分で考え、ひとびととそれをすり合わせていく、その一つのきっかけになればと思い、15回の講義をさせていただきました。

鳥は空を自由に飛びます。
しかし、飛ぶ自由にはかならず負荷がかかります。
それを引き受けながら生きていく……そう、力強い人生を歩んで欲しいですね。

まあ、偉そうなことをまたぐだぐだ並べて申し訳ないのですが、ともあれ、授業への参加、ホントにありがとうございました。



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