一般教養教育をうけた者とは、安直で好まれやすい解答に抵抗できる者のことである






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 一般教養教育とは、正確にいって、学生を助けてこの問い(=「高貴な熱望にかかわる問い、『人間とは何か』という最大の問題のこと……引用者註)を自分で立てられるようにすることを意味する。答えは明らかではないが、かといって見いだせないわけでもないこと、真剣な人生では必ずこの問いが絶えず関心の的になること、学生にこれらのことを気づかせるのは、一般教養教育である。それを横見へ逸らそうというあらゆる努力にもかかわらず(その二、三はの例は本書で議論されるだろう)、すべての青年は「私は誰なのか」と尋ね、われわれ各人のなかには、デルポイの信託の「汝自身を知れ」という命令に従おうとするやむにやまれぬ欲求が生まれる。この問いや欲求は、まずもって「人間とは何か」を意味する。どのみち正解はないのだから、その問いは、結局、複数のありうべき答えを知ること、それらについて省察することに帰着する。これらの代替可能な解答を手に入れさせる役目をするのが一般教養教育であるが、われわれの本性や時代の意にそわない解答も多い。一般教養教育をうけた者とは、安直で好まれやすい解答に抵抗できる者のことである。それは彼が頑固だからではなく、そのほかの解答も省察に値することを知っているからである。書物を学ぶことが教育のすべてであるかのように信じるのは愚かであるが、読書はつねに必要であり、自分にもなれる高貴な人間類型の生きた見本が乏しい時代においては、とくに必要である。そして本を学ぶということは、教師が与えうるもののほとんどを占める。ただしそのためには、読書と人生の関係が自然に保たれた雰囲気のなかで、適切な読書指導がなされねばならない。やがて彼の学生は否応なしに人生を経験するだろう。教師の望みうる最大のものは、自分が与えうるものが学生の人生に生気を吹き込むということである。たいていの学生は、現状が重要だと見なすもので満足するようになるだろう。他の者は、いまは家族と野心が彼らに別の関心の対象を与えているせいで、表面にはあらわれていない熱狂の精神を、やがてもつことになるだろう。少数の者は、自立する努力のうちに彼らの人生を送るだろう。一般教養教育は、とりわけこの最後の者のためにある。
    −−アラン・ブルーム菅野盾樹訳)『アメリカン・マインドの終焉 』みすず書房、1988年、13頁。

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非常勤ながらも、一般教養教育を担当していると、現実には我ながらその無力さに青ざめてしまうことがよくあります。

当今の大学というものは、やれキャリア教育だの、実践的演習だの、社会に対して「迎合」した科目がもてはやされる風潮でおなかいっぱいです。

本来、大学とは、社会に対して「迎合」するのではなく、社会の圧倒的な「惰化」に対して、警世の預言者として対峙すべき「自由の学府」というのが、その存在根拠の一つとしてあるわけです。

しかし実際には、公務員上級試験に何人受かったとか、有名企業に何人就職させたとか、全体で就職率○○%乙、みたいな現状には、……はぁ、とうなだれてしまいます。

それから、「哲学」っていう言葉が就職予備校でも使われなくないんですよ。
どーいうふうに使われるかといえば、「成功哲学」とか「勝負哲学」というアレですワ(涙

もちろん、一流企業に就職したり、国家公務員の上級職や弁護士をはじめとする「士」になるのが「悪い」という訳ではありませんよ。それはそれですごいことですよ。しかしそれは「学問」を探求した結果としてついてくるもののはず。

などとのたまってしまいますと、

「それは建前にしかすぎませんから、先生、現実みてください(失笑)」

「氏家先生は、やっぱり“古い”ですね、くくく」

……などとリアルに言及されることは屡々です。

しかし、やはり大学とは学問の探究の「道場」であるはずなんですよ。
そこを軽視していくと、やっぱりスカスカのズブズブになってしまうことは間違いないんですよね。

ですから、同僚からの「失笑」にもめげず、精一杯、取り組ませていただいております。

冒頭には、1980年代後半、その出版に全米が震撼したというアラン・ブルーム(Allan David Bloom,1930−1992)の『アメリカン・マインドの終焉』の著者による序から一部を紹介しました。

同書は、政治哲学の専門家による現代の大学教育批判の書として名高い一冊ですが、ブルームは、昨今の大学の教育水準が低下し、西欧の文化遺産の多くが若き学生たちに受け継がれていない実情をきびしく指摘しています。

そして問題の指摘だけでなく、一般教養教育を充実させるためには、「もっと古典教育に工夫をこらし努力を傾けるべきだ」とも提言し、社会から持ち込まれる現実的・実利的要請を拒否すべきだと踏み込んでおります。

ブルームの主張は、一見すると古くさい教養主義を認めるだけの「保守主義」のようにみえるかも知れません。しかし、古代ギリシアにまで遡って大学論を基礎づけようとするその試みは、保守か改革かという単純な二項対立を乗り越えた地平から発せられた「教師」の肉声にほかなりません。

何の為に教養を学ぶのでしょうか。

「一般教養教育をうけた者とは、安直で好まれやすい解答に抵抗できる者のことである。それは彼が頑固だからではなく、そのほかの解答も省察に値することを知っているからである」。

この一節につきるのではないでしょうか。


さて……。
本日から、「哲学」の講義。
金曜日に配当されたのは始めてでしたが、履修(予定)者が予想以上に、多く驚き!

これから15回の講義では、キャリアデザインにも、就職活動にも、そして銭儲けにも直接の役には立たない「哲学」のお話しをして参りますが、是非、よろしくお願いします。










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