哲学を学ぶ「私たち蝶々は非常に不確定で、大地の上に安全にすわって満足している人びとから見るとおそらくたいへん滑稽」ですがそこに学ぶ意義が存在する。


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 哲学的な生活態度の目標は、到達可能な、したがってまた完成されるような状態として定形的に表現されないものであります。私たちの状態は私たちの実存のたえざる努力やその断念の現象であるにすぎないのです。私たちの本質は「途上にあること」なのです。私たちは時間の中を突進しようとするのです。それはつぎのような両義性においてのみ可能であります。
 自己の歴史性の「この時間」において実存することによってだけ、私たちは永遠の「今」を経験するのです。
 「この」形態としてそのつど規定された人間としてだけ、私たちは人間存在そのものを確認するのです。
    −−ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』新潮文庫、昭和四十七年、166−167頁。

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先週、千葉の大学で担当する「倫理学」の初回ガイダンスにて、参加者1名orz……という状況でしたので、これりゃアまた、「1名で授業かーー」と思いつつ、この水曜に出講すると20名以上の参加で少し驚き!!!

カリキュラムの都合上、これまではほとんど履修できる学生が機会的に存在しない状況だったのですが、教務の方で調整してくれたおかげと、先週参加してくださった学生さんがリクルートしてくれたようで、多数の参加者にびっくすると同時に、教鞭をとる機会が失われなかったことには先ずは感謝です。

これは倫理学でも哲学でも同じことなのですが、初回の講座では、これまでの「学習スタイル」を完全にぶっこわすところからいつも始めます。

例えば、高等学校までの「義務教育」での「学習」とは、何かを覚える、公式を応用する……というスタイルに代表されるように、その手順を踏んで、必ず存在する一対の答えを導き出す(ないしは照合させる)ことがその目的とされています。

もちろん、暗記をするだとか、知識をもとにそれを応用するということが糞下らねぇことで、全否定すべきだとは思いません。しかし、それが学問の全てだと思うと大間違いであるということです。

特に倫理学とか哲学という学問に対する、一般的な新入生の認識は、高等学校における「倫理」や「歴史」科目の延長線上で理解している場合が多く、「覚えなきゃならない」、「小難しい」、「自分とは関係ない」……というイメージが殆どです。

たしかに概念や理屈を知らないよりは知っていた方がいいとは思うが、知らないことで哲学することは倫理学的思索を遂行することが不可能なわけではありません。否、むしろ知識の鬼になっていないほうが、柔軟な思考ができるぐらいだと思います。

義務教育での知育は何をもたらすのでしょうか。
そう、全てに答えがある。何かを覚えて、数式どおり計算すれば「絶対に正しい解答」が存在するというドクサです。

先にいったとおり、そういう部分はあると思います。しかし、それが学問の全体ではないということ。

では大学で学ぶそうではない部分の……そしてこれが一番大事であるのですが……「学問」の特色とは何でしょうか。

自分で考え、且つひとりよがりにならず、自分で解答を導き出していくということがそのひとつじゃないかと思います。

人間世界には「絶対に正しい解答」が常に存在する訳ではありません。複数存在する場合もあるでしょう。そして、ない場合もあるかもしれません。

そういうとき「先生ー、これで合っているのでしょうか???」とか、「解答集と照らし合わせ○×をつける」という判断ではなく、問いに対して、逡巡・熟慮・葛藤しながら、あきらめることなく「歩いていく」……そういうものが大学の学問なのじゃないかと思います。それが特に哲学とか倫理学ということでしょうか。

よく、学生から「哲学(ないしは倫理学)って、“答え”がないですよねー」と言われます。

エスでありノーです。

「絶対に正しい解答」が常に先験的に存在すると夢想するのであれば「イエス」です。
そして、解答集がないからといって、問いの探究をやめるという意味であれば「ノー」です。

他者に考えてもらうのではなく、自己で考えてみる。
その歩みはふらふらとしてたよりないものかもしれません。
そして、その歩みが独りよがりにならないために、自己と対話し、社会と対話し、そして人間の歩みとしての歴史と対話する。そして先賢の思索を追跡し、その考え方と対決しながら、時には納得し、時には反発しながら、強い考え方をつくっていく……それが哲学とか倫理学なのでしょう。

その力強い考え方をみにつけることにより、「絶対に正しい解答」が存在するという呪縛を断ち切ると同時に、では答えがない場合や複数に存在する場合にはどうするのか、そのことを学ぶことができるのだと思います。

まさにヤスパース(Karl Theodor Jaspers、1883−1969)のいう「哲学的な生活態度の目標は、到達可能な、したがってまた完成されるような状態として定形的に表現されないものであります。私たちの状態は私たちの実存のたえざる努力やその断念の現象であるにすぎないのです。私たちの本質は『途上にあること』なのです」。

途上にありつづけることで、あきらめや撤退から無縁な自己を定立できるはずです。

そのことは同時に、これまで自分が「そんなものなんだよね」だとか「そう考える・そう行動することは当たり前だよね」って身に付けてきたものを全てふるいにかけることになると思います。

これからの授業では、そういうショック?を与えていくと思いますし、私自身も若き知性の皆様からショックをうけつつ、共に探究の旅へ出発できればと思いますので、宜しくお願いします。

……ってことで、今日は「哲学」の授業じゃないですか!!!
いちおー、準備万端です。

こちらの皆様も宜しく!!



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 哲学者は、実際的な経験や特殊科学や範疇論や方法論などの大陸の確実な地盤の上で定位し、そしてこの大陸の果てにおいて、静かな軌道に乗って理念の世界を通過したあとで、最後に大洋の岸に着きます。そしてそこで蝶々のようにひらひらと舞いあがって海岸に出て、一艘の舟を探し出し、それに乗って、自己の実存において、超越者として建言するところの一なるものの探究を目ざして探検旅行に出ようとするものであります。彼は哲学的思惟と哲学的な生活態度の方法としてのあの舟を探します。そして彼はその舟を発見しますが、究極決定的にそれを獲得しません。そして彼は非常に苦労し、おそらく奇妙なほどふらふらになるでしょう。
 私たちはこのような蝶々なのです。そしてもし私たちが確固たる大地によるところの定位を放棄するならば、私たちは没落するでしょう。しかし私たちはいつまでもそこにとどまることに満足しません。ですから私たち蝶々は非常に不確定で、大地の上に安全にすわって満足している人びとから見るとおそらくたいへん滑稽でありましょう。彼は不安をとらえたあの人びとにとってだけ理解されるのであります。彼らにとっては、世界はあの飛躍の出発点となるのです。そしてこの飛躍こそはいっさいのものにとって重大なことであり、人は誰でも自己自身のうちからその行動を起し、そして共同的にそれを完遂しなければならないのです。またそれはそのもの自体としては、けっして本来の教説とはならないものなのであります。
    −−ヤスパース、前掲書、167頁。

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