言語活動は立法権であり、言語はそれに由来する法典である。われわれは、言語のうちにある権力に気づかない。






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 私が権力的言説と呼ぶのは、言説を受け取る側の人間に誤ちがあるとし、したがって、罪があるとするような言説のすべてである。ある人々は、われわれ知識人があらゆる機会に「国家権力」に反対して行動することを期待している。しかし、われわれの真の戦いはほかにある。真の戦いは、複数の権力に対するものであって、それこそ容易な戦いではない。というのも権力は、社会的空間においては複数的であり、歴史的時間のなかでは、それと対称的に、永続的だからである。権力は、こちらで追放され、衰えたかと思うと、あちらにふたたび現われる。権力は決して滅びないのだ。権力を打破するための変革をおこなっても、権力はたちまち、新しい事態のもとでよみがえり、芽をふきかえすだろう。権力がこのように持続し偏在するのは、権力が、社会の枠を越えたある組織体に寄生しているからである。その組織体が、単に政治の歴史や有史以後の歴史だけでなく、人間の来歴全体と結びついているからである。人間が存在しはじめて以来ずっと権力が刻みこまれているこの対象こそ、言語活動(ランガージュ)である−−あるいはもっと正確には、言語活動の強制的表現としての言語(ラング)である。
 言語活動は立法権であり、言語はそれに由来する法典である。われわれは、言語のうちにある権力に気づかない。というのも、およそ言語というものはすべて分類にもとづき、分類というものはすべて圧制的である、ということを忘れているからである。ordo(秩序=命令)という語は、分類区別することと同時に威嚇を意味する。
    −−ロラン・バルト(花輪光訳)『文学の記号学 コレージュ・ド・フランス開講講義』みすず書房、1981年、11−13頁。

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授業のなかで、ときどき、

「質問とか何かありますかー? 授業の内容と全く関係ないものでもいいでよー?」

って訊くことがあります。

もちろん、大勢のまえで、

「ハイ! 質問です」

ってやることに対する遠慮という抵抗感があるのも事実でしょうが、割と、

「しーん」

っていう反応で切り返されることがここ数年多くなったような気がします。

勿論、私に全て対応できるわけでもありませんし、通信教育部で教鞭をとっていたときは、年齢も様々でしたから、「うひゃー」っていう質問も飛び出したりするなど、大汗をかくことも屡々経験してきましたので、切り出す方も、まあ、「さあ、かかってこい」って構えるわけですが、わりと、

「特にないですー」

みたいな反応で終わってしまうと、ガクってなってしまうのも事実です。

人間の思考は言語によって遂行されます。そしてその言語そのものに権力性が深く刻印を記していると暴いてみせたのはフランス現代思想でしょう。

しかし、「沈黙」とか「考えるに値しない」とか「改めて訊くような事柄はない」っていうのも、実際のところは、自覚がないけれどもそれは、ひとつの権力の威嚇による発露であり、しなやかな駄化の表出なんじゃないのかと思ったりもします。

「特にないですー」っていうことを責めようとは思いませんが、ある程度は、所与のものとされる事柄に対して「ほんとうはどうなのだろうか」っていう批判眼は大学生には必要だろうと思うのですが、うーむ。











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