「内に立憲主義、外に帝国主義」から「内に立憲主義、外に国際的民主主義」へ





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 国内政治に向けての民本主義の唱道は、国際政治に向けての態度に変化をもたらした。初め、内に立憲主義、外に帝国主義の立場を免れていなかった吉野は、第一次世界大戦(一九一四−一九一八年)後、「帝国主義より国際的民主主義へ」というふうな講演をするようになる。民族自決の叫びへの、日本で数少ない理解者の一人となった。
 一九一九年、朝鮮に三・一独立運動が起きると、「朝鮮統治の改革に関する最小限度の要求」をものして、差別的待遇の撤廃や同化政策の放棄を求めた。つづく中国での五・四運動に当たっては、「北京学生団の行動を漫罵する勿れ」を書いて、彼らの行動を、「日本を官僚軍閥の手より解放せん」とする「吾人とその志向目標を同じうする」とした。帝国日本にいて、脱帝国主義への途を示す論議であった。これらの論議は、「我文部省の目的は、青年師弟の思想感情を一定の鋳型より打ち出さんとするに在り」(「精神界の大正維新」一九一六年)という、文教政策批判ともども忘れがたい。
 後年に吉野は、中心となって明治期の文献を掘り起こし、『明治文化全集』を完成させる。そこには、政治思想の変遷を明らかにし、「今のデモクラシー」に歴史的根拠を与えたいとの考慮が働いていた(「明治文化の研究に志せし動機」)(以上『吉野作造選集』各巻)。
    −−鹿野政直『日本の近代思想』岩波新書、2002年、36頁。

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大正時代の宗教界や思想世界を研究していると、その教科書的「断定」や「認識」の錯誤に驚くことが多々あります。例えば、当時の知識人のダブルスタンダードを批判する標語の一つが「内に立憲主義、外に帝国主義」という言葉。

これは浮田和民の造語と言われますが、その浮田自身を含めてもそうですが、簡単に「内に立憲主義、外に帝国主義」と断定することは不可能だと思います。

確かに、そういう主張で“立て分け”ていた知識人が多いのは事実です。しかし十把一絡げしてしまうと、大切なことを見落としてしまうのも事実です。

自分自身が研究している吉野作造もそのひとりでしょう。

いわゆる「民本主義で当時の論壇をリードし、大正デモクラシーの醸成に寄与した」人物です。その民本主義において、内政を立憲主義を軸にした実質的デモクラシーの要求を突きつけながらも、「外」に対してはどうであったのか。

吉野の評価も割れるところはありますが、彼の場合、そのまま「外に帝国主義」で終生あったわけではありません。

冒頭の引用の通り、吉野作造の出発は素朴なナショナリズムから発します。しかし、知見の深化やひとびととの交わりは、それを相対化させていくのがその歩みであり、植民地支配されているひとびとを劣ったひとびとと見なすのではなく、対等な他者として尊重していく実践でもありました。

そしてその内と外の立場というものは、吉野作造においては、「別々の事柄」ではなく、両者がいわば密接に相互に影響を与えながら醸し出されたものというのがその消息でしょう。

まさに「国内政治に向けての民本主義の唱道は、国際政治に向けての態度に変化をもたらした」通りで、吉野においては「内に立憲主義、外に帝国主義」ではなく「内に立憲主義、外に国際的民主主義」というのが精確だと思います。

そしてその当時のデモクラシーを根拠づけるために、晩年は、明治文化への研究も併走させていきます。大正デモクラシーは、ふって沸いた「熱病」ではなく、その助走があったこと。そしてそれを新しく時代に即して展開していく。これが吉野の晩年の挑戦になります。

戦後の民主主義の確立は、切断面だけが強調され(確かにそれはそうなのですが)、萌芽の限界が指摘されるばかりです。

しかし、その萌芽の積極的にも注目しない限り、それはひとびとにとって内在的開花とはなり得ません。その場合、それは、どこまでも「ふって沸いてきた」ものとして受容される訳ですから、簡単にひっくり返ってもしまうというのも事実だと思います。

まあ、ひっくり返されても困るわけですので、接ぎ木としてそれを受容するのではなく、開花として私自身は、受容したいと考えます。










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