夫婦間であれ親子間であれ、「無駄話」や「お喋り」をかわしあえる関係こそが、最も深く安定する
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僕がギャル語に注目するのは、まさにこうした機能に特化して進化してきた言語であるという点だ。それは「会話のための会話」、いわば「純粋言語」の作法として、特異な発展を遂げつつある。ちなみに僕は、こうした会話を「毛づくろい的会話」と呼んでいる。
断っておくが、僕はギャル語を軽んじるつもりは毛頭ない。むしろ「毛づくろい的会話」こそが最も高度な会話であり、選ばれた会話達人のみが到達できる境地である、と信ずるものだ。
以下は余談だが、僕を含む男性は一般に、こうした「会話のための会話」がきわめて苦手である。男は会話に「情報」と「結論」を求めすぎるのだ。僕は家族円満の秘訣は、こうした「毛づくろい的会話」を日常的にかわすことだと確信している。夫婦間であれ親子間であれ、「無駄話」や「お喋り」をかわしあえる関係こそが、最も深く安定するからだ。
−−斉藤環『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』角川書店、2012年、28頁。
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人文科学の哲学なんかを担当していると、やはり「会話」よりも「対話」を尊重してしまいます。そのまなざしから前者の「非創造性」を批判することのが商売になりますので、もはや職業病のようなものですけれども、トータルな人間の生活世界という視座から俯瞰し直すと、会話だけでも駄目でしょうし、同じように対話だけでも駄目なことは理解できます。
確かに、ソクラテスがそうであったように、目的を掲げて、他者とのやりとりのなかで、論点を整理し、なんらかの「真理」へ至ることは重要ではあります。しかしそれだけで生活が成立するのではないのも事実でしょう。そしてその逆もまた然りでしょう。
どちらか一方が先験的にエライというのではなく、そして、対決させるべきものではなく、得意・不得意というのが存在するのが実情ではないかと思います。
対話は確かに、なんらかの合意や意思形成において訳にはたちます。しかし、生活の「潤い」という分野に関してはこれは苦手であり、ここは「会話」の出番になることは間違いありません。
さて、今日は、休みでしたが、夕方から細君が所用で外出のため、息子殿とふたりで「留守番」という非常事態というorzでありましたが、ただ、ぼんやりと「目的」や「意図」もなく、言葉を交わすという「ゆっくり」とした「時間」を過ごすことができました。
別に学校で何をやっているのか聞く訳でもなく、ただ、ぼんやりと時間と空間を共有し、言葉のキャッチボールを少しやるだけで、経済的合理性という観点からは「糞の訳」にもたたない「不毛」な時間なのでしょうが、お互いの「潤い」にはなったのではないかと思います。
このところ、公私を問わず、いわゆる人間のトータルな意味での「言論空間」(言葉を交わす次元)において、一見、対話を装いながらも、詰問・恫喝・難癖のようなものがじわりじわりと拡大しているような昨今ですから、そういうものだけに占有されないように、自分自身も、人間の言語活動の両側面を大切にしていかねばと思う次第です。