覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『牛乳屋テヴィエ』=ショレム・アレイヘム著」、『毎日新聞』2012年10月28日(日)付。


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今週の本棚:沼野充義・評 『牛乳屋テヴィエ』=ショレム・アレイヘム著
 (岩波文庫・945円)

 ◇「屋根の上のバイオリン弾き」原作の愉快な世界

 『牛乳屋テヴィエ』といってもぴんとこない人が多いかもしれないが、大ヒットしたあのミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の原作である。作者はショレム・アレイヘム(一八五九−一九一六)といって、ウクライナのシュテトル(ユダヤ人集落)の貧しい家の生まれ。「ショレム・アレイヘム」とは「皆さんに平和を」を意味するユダヤ人の挨拶(あいさつ)の言葉をそのままペンネームにしたものだ。『牛乳屋テヴィエ』は連作短篇集で、イディッシュ語で書かれた。これは東欧系ユダヤ人の口語で、いまでは滅びかけたマイナー言語だが、当時はこうして優れた作家も生み出すほどの文化言語にもなっていたのである。この言葉でユダヤ人の暮らしをユーモラスに活写した彼の作品は、やがて英語を初めとする多くの外国語に翻訳され、彼は国際的人気作家になった。

 「屋根の上のバイオリン弾き」ならば、日本でもよく知られているし、その原作も英語からの重訳ではあるが、すでに翻訳されている。しかし、今回の新訳について特筆すべきは、原典から訳されているということだ。東欧を知るためにイディッシュ語は非常に重要な言語だが、日本ではその学習者はまだごく少数にとどまる。若いころから東欧ユダヤ文化に関心を持ち、この言語を学んできた比較文学者、西成彦(まさひこ)氏によって、今回この名作がついにイディッシュ語原文から訳し直されたことは、日本の翻訳文学史上の快挙といっても過言ではない。

 テヴィエはユダヤ人の伝統を重んずる貧乏な頑固おやじで、抜け目なく稼ごうとする商売っ気もあるが、たいていはうまくいかない。情にもろいところがあり、なによりもおしゃべりだ。その彼が饒舌(じょうぜつ)に、自分の身に起こったこと、特に自分の娘たちの運命について、作家のアレイヘム先生にあてて書き綴(つづ)った、という形式なので、難しいことはおいて、その言葉をまず楽しもう。イディッシュ語の愉快な語りを、新訳はそれに見合った生き生きとした日本語で再現している。テヴィエは信心深いユダヤ人なので、自分の教養をひけらかすかのように、聖書からの引用や成句をやたらに自分の文章にちりばめる。それがまた可笑(おか)しい。西氏はそういった原文の「多言語性」の襞(ひだ)にまで分け入って、原文の豊かなニュアンスを汲(く)み取っている。
 物語はおおよそのところミュージカルで知られている通りだが、この原作を読むと、アメリカ化されたブロードウェイの世界とは相当に違う「シュテトル」の雰囲気が漂ってくる。子だくさんで、多くの娘に恵まれたものの、その一人は貧しい仕立て屋と相思相愛になり、もう一人は革命家と結ばれて流刑地へと旅立ち、さらにもう一人は、こともあろうに「異教徒」のキリスト教徒と駆け落ち。

 やがて押し寄せてくるユダヤ人迫害の波の中で、テヴィエ一家は長年住み慣れた場所から追い立てられるのだが、立ち退きを命じにきた巡査に対して、彼はこれまた愉快な抵抗を試みる。「しかしね、あたしはあんたなんかよりもずっと前からここに住んでいるんですぜ、お役人さん(ヴァシェ・ブラホロディエ)」と切り出して、自分の家系を延々とたどって巡査を辟易(へきえき)させるのだ。

 テヴィエは手紙の末尾で、「もしも神がお望みなら、またどこかでお目にかかれるでしょう」と、アレイヘム先生に呼びかけるのだが、そう、百年も前にイディッシュ語で書かれた作品からテヴィエが鮮やかに立ち上がり、現代の日本の読者と出会うことになった。素晴らしいことだ。(西成彦訳)
    −−「今週の本棚:沼野充義・評 『牛乳屋テヴィエ』=ショレム・アレイヘム著」、『毎日新聞』2012年10月28日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20121028ddm015070042000c.html


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