書評:斉藤環『世界が土曜の夜の夢なら  ヤンキーと精神分析』角川書店、2012年。

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「気合」と「いきほひ」のあいだ
 ここまでヤンキーと古事記の関係にふれてきた以上、丸山眞男の言葉にも耳を傾けないわけにはいかない。それでは、丸山は何を言ったか。彼は古事記を徹底的に読み込んで、「つぎつぎになりゆくいきほひ」の歴史的オプティミズムが日本文化の古層にある、と喝破したのだ(「歴史意識の『古層』」『丸山眞男集 第十巻』岩波書店
 なんのこっちゃ、と思っただろうか。これは僕なりに“翻訳”するとこうなる。要するに「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」というような話だ。これが日本文化のいちばん深い部分でずっと受け継がれてきているということ。つまり丸山というわが国でも屈指の政治思想家が、まだヤンキーという言葉もなかった戦後間もない時期に、日本文化とヤンキー文化の深い連関をみぬいていた、ということになる。
    −−斉藤環『世界が土曜の夜の夢なら  ヤンキーと精神分析角川書店、2012年、227頁。

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斉藤環『世界が土曜の夜の夢なら』角川書店、読了。「なぜ天皇愛する人々はかくもヤンキーが好きなのか」との問いから出発し、豊富な事例から「美学としてのヤンキー」を紹介し、「ヤンキー的なイメージ」の構造を解明する。副題は「ヤンキーと精神分析」だがヤンキーの精神分析ではない。

本書に出てくるヤンキー的なるものは多種多様だ。横浜銀蠅からB'z、木村拓哉から白州次郎まで。一見するとヤンキーなのか?と当惑する事象も多いが著者が注目するのは、ヤンキーの美学であり、ヤンキーそのものではない。

さてヤンキーの美学の具体的な特徴とは何か。「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」である。冷静な思索や分析よりも、意気込みや姿勢を重視するスタイルだ。そしてそこでは「結果」は問われず、対峙する勢いがヤンキー的リアリズムの核となっている。

そしてヤンキー的リアリズムは現実主義的な発想をする反面、「夢」を語る。日常に根ざしたリアリズムと日常と乖離したロマンティシズムの奇妙な混交が矛盾を内包することとなる。だからそれは思想ではなく「生き方」の「美学」なのであろう。

このリアリズムとロマンティシズムは立ち位置の二重性としても現出する。世間に対する反発の「自由主義」と同族共和の「集団主義」の奇妙な折衷にヤンキーは個と集団として成立するからである。ヤンキー先生の国旗・国歌容認への容認は転向ではなく必然にたどる道である。

著者が指摘するヤンキーの美学の特徴は、現代社会を考える上で示唆に富んでいる。「気合い」を示すためには、目立つしかない。時間のかかる手順や洗練を割愛する橋下氏(現象)は、潜在的な美学へのシンパシーと憧憬があればこそ人気は必然でもあるからだ。

(DQN否定と同義では全くないが)ヤンキーの美学とは反知性主義である。しかし上から目線での批判は意味をなさない。価値や根拠なしに自ら気合いを入れ、場当たり的に根拠をねつ造し、フェイクに委ね行動する力強い「生存戦略」だからだ。



この反知性主義との向き合い方は私を含め読み手それぞれの課題であろう。全体として細かい芸能ネタの確認が多いが(知識のない人にはきつい)、積極的に評価されがちな「気合い」ひとつにしても、それをきちんと検証していく著者の営為と批評には敬意を感じる。

著者の「診断」はヤンキーを語る上で、対象に向けられた著者自身の欲望とはなにか、という問いと常にリンクしており、対象化を不断に退けようとする。この点には好感を抱いた。『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫)以来の幸福な再会に感謝。少し他著も読んでみようと思う。了。


(余談) まぁ、「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」では、なんとかなりませんし、丸山眞男のいう「無責任の体系」のひとつの具現化した言い回しのひとつだと思いますし、そういう「ノリ」と、どう対峙するかだとは思います。単純な「おまえ、アホか」式なそれではなくてですね。





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