書評:アルンダティ・ロイ(本橋哲也訳)『民主主義のあとに生き残るものは』岩波書店、2012年。


本書は、大企業(市場主義)ヒンドゥー原理主義ナショナリズム)が民主主義の名のもとに人々を抑圧するインドの苛烈な現状を告発するインド人作家の政治エッセイ集。そしてこの現実はインドだけでなく世界各地で現在進行形のことであると著者は指摘する。

進歩と開発は人々に生活の安心をもたらすのだろうか−−。

かつての植民地支配の掲げたその理念は、民主主義世界において「新帝国主義」という形で数倍の悲劇を招来している。本書は、その矛盾に立ち向かう筆者の精神の軌跡と表現できよう。困難な現実に目を背けないというのは簡単だ。しかしそこへの取り組みには困難がつきまとう。しかし、その一歩とは以外と近くに存在することにも驚くばかりである。

筆者は昨年3月10日に初来日し、翌日、東日本大震災を東京で経験した。講演はキャンセルされたが、表題作がその予定稿である。巻末には来日時のインタヴューも収載されている。『誇りと抵抗 ―権力政治を葬る道のり』(集英社新書)と併せて読むことで立体的に理解することができる。

「インドは世界の縮図」との言葉が重い。



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 私たちの惑星の死滅が確実に思えるときに、そもそもこの危機を招いた想像力から何らかの解決策が生まれることを期待できるだろうか? どうもそうは言えない。もし別の選択肢が可能だとすれば、それは資本主義と帝国主義の覇権に協力した場所や人びとからではなく、それに抵抗したところから生まれてくるのではないだろうか。
 ここインドでは、すさまじい暴力と貪欲のさなかでも、大いなる希望がある。誰かにできることなら、私たちにだってできる。ここには、消費の夢によってまだ完全に植民地化されていない人たちがいる。私たちの周りには、ガンディーの思想であった持続可能で自給自足の生活のために闘ってきた人びとの伝統が生きており、平等と正義という社会主義の理想がまだ息づいている。私たちには、ガンディー主義者にも社会主義者にも真剣な問いを突きつけるアンべードカル〔社会改革運動家で政治家。不可触民出身でカースト改革に専心した。一八九一〜一九五六〕の思想がある。豊かな経験と理解と思考にあふれた抵抗運動の見事な連帯があるのだ。
 一番大事なことは、インドには一億人ものアディヴァシの人たちがいまだに生存しているということだ。彼ら彼女らは持続可能な生き方の秘密をいまだに知っている。もしこの人びとが消滅してしまえば、その秘密も消えうせる。「緑の捕獲」作戦のような戦争は、彼女たちを消滅させてしまうだろう。だからこうした戦争の実行者に勝利がもたらされることがあれば、それは、自分たちの破滅の種を蒔くことであり、アディヴァシだけでなく、いずれ人類全体の破壊につながる。だからこそ中央インドの闘いが重要なのだ。この戦争に抵抗しているあらゆる政治的な団体のあいだで早急に対話が実施される必要があるのも、このゆえである。
 資本主義がそのただなかに非資本主義社会を認めざるをえなくなる日、資本主義が自らの支配には限度があると認める日、資本主義が自分の原料の供給には限りがあると認識する日、その日こそ変化の起きる日だ。もし世界になんらかの希望があるとすれば、それは気候変動を議論する会議の部屋も高層ビルの立ち並ぶ都会にもない。希望が息づいているのは、地表の近く、自分達を守るのが森や山や川であることを知っているからこそ、その森や山や川を守るために日ごとに戦いに出かける人びとと連帯して組む腕のなかである。
 ひどく間違った方向に進んでしまった世界を再想像するための最初の一歩は、異なる想像力をもつ人びとの絶滅を止めることだ。この想像力は資本主義のみならず、共産主義にとっても外部にある。それは何が幸福や達成を構成するかについて、まったく異なる理解を示す想像力である。このような哲学に場所を与えるためには、私たちの過去を保持しているように見えて、実は私たちの未来の導き手であるかもしれなし人びとの生存のために物理的な空間を提供することが必要となる。そのために私たちは支配者たちにこう問わなくてはならないーー水を川に留めおいてくれるか? 木々を森に留めおいてくれるか? ボーキサイトを山に留めおいてくれるか? と。それはできないと、もし彼らが答えるのであれば、彼らは自分が起こした戦争の犠牲者に説教をたれることを即刻やめるべきだ。
    −−アルンダティ・ロイ(本橋哲也訳)「民主主義のあとに生き残るものは」、『民主主義のあとに生き残るものは』岩波書店、2012年、41ー42頁。

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民主主義のあとに生き残るものは - 岩波書店


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