誤った文明と正しい文明というまことしやかなナンセンス:どんな文化も、文明も、単独では存在しない



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 ここで品格や尊厳(ディグニティー)について話したい。言うまでもなくこの観念は、歴史学でも、人類学でも、社会学でも、人文科学でも、およそすべての文化に特別な位置を与えられている。まっさきに指摘しておきたいのは、アラブ人でも、ヨーロッパ人やアメリカ人とは違って個人という感覚をもたず、個々の人生に対する尊重がまったく欠けており、愛情や親密さや理解の表現には価値を認めない(そういうものはルネッサンス宗教改革啓蒙主義を経験したヨーロッパやアメリカのような文化だけがもつ資質なのだとされている)と理解するのは、根本的に間違った、オリエンタリズムの、本当に人種差別的な命題だということだ。その筆頭に挙げられるのが、教養のない、幼稚なトーマス・フリードマンだ。この男が広めてまわっているこういうばかげた命題を、自分のものとして取り込んでいるのは、情けないことに、フリードマンに負けぬほど無知で自己欺瞞的なアラブ知識人たちだ。具体的に名を挙げる必要はないだろうが、彼らは、9・11の残虐行為は、アラブ世界やイスラーム世界がどういうわけか他の世界よりも病んでおり、より重症の機能不全に陥っていることの兆しであると考えており、またテロリズムは、他の文化よりも大きな歪曲が起こっている兆候であるとみている。
 だが両者を比較してみれば、ヨーロッパとアメリカのほうに、二十世紀に発生した暴力による死者の圧倒的多数についての責任を帰すことができ、それに比べればイスラーム世界のものなどほんの小さな部分にすぎない。この誤った文明と正しい文明というまことしやかなナンセンスの背後には、偉大な偽預言者サミュエル・ハンティントンのグロテスクな影法師が見え隠れする。この世界は相異なる個別の文明に分割することができ、それは互いに永遠の抗争をつづける運命にあるという考えを、彼は多くの人々に吹き込んだ。だがハンティントンは、その主張のどのポイントにおいてもことごとく間違っている。どんな文化も、文明も、単独では存在しない。個人主義啓蒙主義といった完全に独占されたものだけで成り立つような文明など存在しないし、共同体や愛情や生命の価値などといった人間の基本的な特質を欠いた文明も存在しない。この逆のことを示唆するのは純粋な人種差別であり、アフリカ人は生まれつき劣った頭脳をもつとか、アジア人は隷属するために生まれてきたのだとか、ヨーロッパ人は生まれつき優れた人種であると主張するような人々と同類だ。これは一種のヒトラー流の科学のパロディーが、今日ではもう他にみられないようなかたちでアラブ人とムスリムを攻撃するために用いられたものであり、そんなものに対しては論駁の形式さえとらないほど断固として退けなければならない。愚にもつかないたわごとなのだから。一方、もっと信頼できる本格的な記述によれば、アラブやムスリムの生活には、他のすべての人類の場合と同じように固有の価値観や品格があり、それはアラブやムスリムの独特の文化的なスタイルの中に表現されている。そのような表現が、誰もが見習うべきだとされる一つのモデルに似ていたり、そっくり真似たものである必要はない。
 人間の多様性の本質は、つまるところ、互いに大きく異なった個性や経験が互いに深く関わりあいながら共存する形式にある。一つの優越した形式の下にすいべてを還元してしまうことなどできはしないのだ。そういうものはアラブ世界における発達や知識の秩序を嘆く物知り顔の連中が、わたしたちに押しつける偽りの議論だ。
    −−エドワード・W・サイード(中野真紀子訳)『オスロからイラクへ  戦争とプロパガンダ 2000ー2003』みすず書房、2005年、404ー406頁。

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文明だけに限らず、考え方や何らかの概念の衝突を煽る連中というは、その「違い」や「違い」に起因することがらを、しらーっと「説明」するふりをして、(実際のところは何の根拠がないにも関わらず)当人たちが優越的と思う規範を押しつけてくるパターンが多いのかもしれない。

異なるものは異なるものとして存在しております。その事実は否定できません。しかしながら、その異なるもの同士がまったく無関係に定位するわけでもありません。

認識の地平において、ハイゼンベルク不確定性原理は、観測者の完全な記述が不可能であることを明らかにしましたが、まさに対象を観察する、言及するという行為ひとつとってみても、それは記述する側、される側になんらかの影響を及ぼすわけですから、完全に何かと独立した「当体」というものが垂直的に自存しているわけではありません。

その意味では、文化や生き方に関しても、全く異なる何かが、それぞれ別個に展開しているように見えながらも、実際のところはそうとは言い切れない部分があるのではないでしょうか。

イードは、西洋における特権的なまなざしを「オリエンタリズム」と造語しましたが、これは単純に西洋と東洋における関係だけに限定される問題ではないと思います。

「わしゃ、外国語も読めないし、外国にいったことないし、世界には関心がない」という方であったとしても、同じような認識構造を知らず知らずに押しつけていったり、実際のところは歪曲された認識像にすぎず、何かに都合のいいイデオロギーのようなものを、「はあ、そうか」と生活の中で遂行されている場合が多いのではないかと思います。

しかし、人間に対する暴言やヘイト的なるもののほとんどは、「文明の衝突」というマヤカシの論理に似たものがあるのじゃないかと思うことが多々ある。

別段に、人間の共通性と差異の両方を強調しようとは思いません。共通性もあれば違いもあるとは思うが、それはありてあるということがらにすぎない。

人間として同じであるという「同化」の過度の強調も不要でしょうが、人間として「違う」ことを何らかの序列にしてみせたりすることも同じように不要じゃないでしょうか。

だいたい、「あいつらには人間性のかけらもない」などとのたまう連中ほど、ブーメランな訳ですが、最近は、そういう手合いの怒声ばかりが目に付き、辟易としてしまいますが、まあ、放置するわけにもいかないわけですよね。

ふぅ。

……ということでボジョレー・ヌーボーでも呑みますか。



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