覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『非合理性の哲学−アクラシアと自己欺瞞』=浅野光紀・著」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。




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今週の本棚:村上陽一郎・評 『非合理性の哲学−アクラシアと自己欺瞞』=浅野光紀・著
 (新曜社・3990円)

 ◇“意志と行動”のへだたりを考える

 哲学ときくと、それだけで拒否反応を示す読者もあるかもしれません。この本も「哲学」と銘打たれています。しかも「非合理性」とくると、一層鼻白む人もありそうです。しかし、この本の主題は、私たちにとってとても身近なものです。

 私たち人間は、様々な行動をします。「行動」とは何かを定義することは難しいようですが、行動とは、人間−−もっとも、この言葉は人間ばかりではなく、生き物はもちろん、機械などにさえ使うことがあります−−の内面ではなく、外から見て取ることのできる事柄一切を含んでいる、と考えたらどうでしょうか。もっと俗っぽく「外面(そとづら)」でもよいかもしれません。

 そうすると、直(す)ぐにわかることがあります。人間において、内面と外面とが、常に一致しているわけではない。これは、自分でも日常的に経験することです。「外面如(げめんにょ)菩薩(ぼさつ)・内心如夜叉(やしゃ)」などという表現もあるくらいです。

 そして本書は、まさしく、人間の内面と外面との間の関係、とりわけ、その間に生じる食い違いを、主題として取り上げています。最初の三章では、イソップの「酸っぱいブドウ」の例を引いて語られることの多い、いわゆる「自己合理化」という問題が扱われます。そこでは、行動を引き起こす自らの意志の問題は、幾分棚上げにして、自分の行動の結果が、自分にとって思わしくないときに、それを「合理化」してしまう人間の性向がテーマになります。著者は「自己合理化」とは言わずに「自己欺瞞(ぎまん)」という言葉を使いますが、それは「合理化」という積極的、能動的な場面ばかりでなく、そもそも人間は、認識の段階ですでに、「不都合な真実」を素通りさせてしまうような面を備えている、という点に力点を置こうとしているからのように読めます。

 もちろん、人間が生きていく上に、こうした面が百パーセント悪である、というわけにはいかないでしょう。しかし、その問題に気づいておくことは大切です。本書では、その点が詳しく、しかし読み易い形で分析されています。

 第四章以下のキーワードは、「アクラシア」という、聞き慣れないカタカナ語で表現されるものです。ソクラテスにまで溯(さかのぼ)ることのできるこの言葉に、著者は新たな命を吹き込んでみようとします。この言葉に著者の与えるとりあえずの定義は「意志の弱さ」というものです。ここでは、さきほど棚上げされていた人間の行動と、それを生み出す意志との間の食い違いが主題になります。自らの目指すものは、Aであっても、それを実際に行動に移すだけの強い意志に欠けるために、結果としての行動はBになる。そんな場面を考えてみればよいでしょう。これも、私たちがしばしば日常で経験することです。

 このような現象を理解するために、著者は、ある行動をしつつある自分を批判的に、あるいは一種の不審感をもって、眺めているもう一人の自分という構造を提出します。この構造は、決して離人症のような病理的な状況を指すのではなく、むしろこれも日常的に誰しもが出会っていることとして、考えられています。ここでも俗っぽい表現を持ち出せば、あの「サルでもすなる反省」ということでもよいかもしれません。

 本書の最も挑戦的な要素は、先の「自己合理化」ないしは「自己欺瞞」という論点と、この「アクラシア」という論点との間に通底する問題を明らかにしようとするところにあります。哲学の面白さを伝えてくれる一著です。
    −−「今週の本棚:村上陽一郎・評 『非合理性の哲学−アクラシアと自己欺瞞』=浅野光紀・著」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞
浅野 光紀
新曜社
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