世の東西の解釈(1)




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 究極の解釈ということは、自己矛盾であるように思われる。解釈は常に途上にある。したがって、解釈という語が人間存在の有限性と知の有限性とを指し示すのだとすると、解釈の経験は、以前の自己了解のうちに存在していなかったものや、解釈学として特殊な諸領域に分類されたもの、そして、難しいテキストのなかの困難を克服するための技術として応用されたものを含むことになる。当時は、解釈学はKunstlehreとして理解可能であったのだが、今ではもはやそうではないのである。
 すなわち、<テキストの説明と理解においては、完全に見通しうるテキストとか、あるいは、完全に汲み尽くすことの可能な関心といったものはそもそも存在しない>ということをわれわれが前提するときには、解釈の術と理論に関連するすべてのパースペクティヴはずれてしまうのである。
    −−ハンス=ゲオルク・ガダマー(本間謙二、座小田豊訳)『科学の時代における理性』法政大学出版局、1988年。


修士の頃、講読でづっと読んでいたのが、解釈学関係の文献で、主としてリクールとガダマーを手当たり次第に読んだ記憶があります。

西洋における解釈学(現代で言えば「哲学的解釈学」)の系譜は、ユダヤキリスト教の伝統では、聖典をどのように解釈するのかという伝統と切り離して考えることはできないし、古代ギリシアにおける詩句解釈に始まるテクスト理解の技法に、大きな根っこがあります。

聖典にしても、文献にしてもそれをどう理解するのかという理解の技法が解釈学の要といってよいでしょう。西洋世界においては、のちには、ローマ法典の解釈という現実との対話としても洗練されていき、学芸における一つの共通了解へと発展していきます。

そして神学的解釈学、文献的解釈学、法学的解釈学といった「特殊解釈学」の流れは、近代にいたり「一般解釈学」へ学として統合されていく。

その特徴を一言で言えば……もちろん、様々な立場はありますが、これもかなりの単純化でしょうがお許しを……歴史をふまえた現在でテクストと緊張的に対話を遂行する、ことではないかと思います。

歴史をふまえたうえで、この「いま」、過去のテクストと対話する・・・などと耳にすると「当たり前じゃん」と言われそうですが、その「当たり前」なことは、西洋における伝統であって、ひるがえって、本朝の現況を鑑みるに、それは「当たり前」とはほど遠いのが現状ではないでしょうか。

日本におけるテクスト解釈の歴史は、数々の創造的な営みを別にすれば、メインストリームはやはり、「訓詁註釈」であり、近代に入って創造された「作者の気持ちとは何か」に代表される意図還元主義の偏重という二つではないかと思います。

前者は、儒学を育んだ中国の伝統をまさに「受容」ではなく「需要」として「輸入」したにすぎませんから、これは本家のうえをいく硬直した態度としてテクストと向かい合うことになってしまう。訓詁註釈とは、まさに字義に沿って解釈していくという原初の緊張関係が喪失されてしまうと、それは権威ある解釈の奴隷を生み出すことになった。様々な解釈は積み重なっていきますが、結局の所、それは鎖の輝きを自慢し合う奴隷たちという有様が実状という話です。そしてそれが儒学の領域に限らず、仏教においてもしかり、さまざまな諸学においてもしかりという話です。

おいおい、西洋でもそれは同じじゃないかといえば、もちろん、洋の東西を問わず、そうした陥穽はどこにでも存在していることは否定しません。しかし、西洋における解釈学の伝統というのは、まさにそうした権威主義との対峙に大きな特色があったことも忘れてはいけないと思います。
※それからめんどくさいのですが、ここでの議論は西洋の文物や思想がえらくて、東洋のそれが糞だという話ではありません。手続きの問題を指摘しているだけですから。

つぎに、「作者の意図」の問題。もう、これは、ロラン・バルトの「作者の死」の議論を待つまでもない話です。作者がどうであったのか、というのはテクストと向き合う上での一つの材料にしかすぎません。しかしながら、デリダ的議論でいえば、本家の西洋が「自分のしゃべっている言葉を自分の耳で聞きたい」という音声中心主義が批判にさらされたわけにもかかわらず、それ以上に意図だのなにだのに過度に第一義をおくのが、近代日本の「私」という瑕疵なんじゃないかと思います。

このふたつが、硬直化と恣意的解釈という病根を日本におけるテクスト解釈、そしてアカデミズムにおける学の遂行に大きな問題を与えたことは否めないし、いまだにそういう傾向はあるのじゃないかと思います。

もちろん、先に言及したとおり、日本にも、そうした日本的態度ではない、例えば、鎌倉仏教の諸開祖や荻生徂徠のような創造的な先達はたくさん存在しているとは思います。

しかし、単純な権威の奴隷、そして意図還元主義はまだまだ大手をふってあるいているのは現状でしょう。なにしろ義務教育における「解釈」教育というものがまだまだそうした傾向が濃厚だからです。

その意味で、過去のテクストと今現在向かい合うということ、それは歴史性をふまえた上で対話をしている。その緊張関係のなかで、むきあっているという構えから、もう一度、テクストと向き合っていく、っていうことが、学者に限らず、必要なのではないかと思います。

最近、思うのは、どこにいっても、(原テクストではなく論書に)「そう書いてある」というのと「作者の気持ちはこれのはずだー」っていう声を聞くことが多いので、その環境の伝統の違いについてつらつらと述べてみました。

では、その解釈の手法とは具体的にどうなのか。
それは、また近いうちに続けようかと思います。





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