老人に用なし死ねといふかこの冬


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老人に用なし死ねといふかこの冬
堀内竹嶺(『愛吟』一九四〇年四月号)

 老人は足手まといになるだけでなんの役にも立たないというのが戦争である。同時に、子どもは邪魔扱いされるはずだが、百年戦争であるかぎり、やがて兵士になる彼らは大切な「人的資源」である。したがって「子宝」として大事にされ、「少国民」などとおだてあげられたりした。もっとも、ただおだてあげたり甘やかしたりしていたのでは役立たずになってしまうから、国民学校(小学校)へ入るころになると徐々に締め上げ、上級生になると、大人がみても苛酷と思われるような訓練や労働を強いた。その上、「欲しがりません勝つまでは」と言わせたのだから、かつての少国民たちの恨みが骨随に達していても不思議ではない。だが、考えてみると、戦争下の老人は、日清・日露の大戦当時は紛れもない若者であった。たとえば、日露戦争当時の現役兵は、この句がつくられた一九四〇(昭和十五)年には五十五歳前後の停年である。かつての「勇士」ももはや役立たずの見本なのだ。この国はそういう国である。
 家庭の唯一の暖房である炭の配給が減る一方の冬の寒さは、老人にとって骨身にこたえたであろう。当時、この句を「キザだ」と評した俳人がいたが、人間を大切に思わない俳人俳人として失格である。
    −−高崎隆治『戦時下俳句の証言』新日本新書、1992年、151−152頁。

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戦争ほど「有用性」で分断する事象はないと思いますが、この「有用性の論理」は、戦後日本のみならず近代国民国家がすべからく共有する論理ではないかと思います。

もちろん、有用性の論理のひとつの思想的根拠とされるのが「プラグマティズム」といってよいかと思いますが、デューイの著作などを紐解けば、単純な「有用性」の楽天的な全肯定というよりも、虚実にすぎぬ権威や虚仮威しに無限に信頼をおくことに対する戒めの色彩のほうが強く目立つ。

プラグマティックとは、その意義では、「人間そのものへ還れ」という主張であり、「この人間は有用であり、この人間は有用ではない」という、例えば現在の「グローバル人材論」とは対極に位置する思想なのではないかと思います。

さて……。
危惧するのはここ数年の教養教育の流れ。全講義を英語でやるという潮流から、ここは「自己啓発セミナー」かと見まがうような“実践的”をうたうキャリア教育に至るまで……。何か「有用性」を間違えているような気がして他なりません。

いま、「有用」とされるものの賞味期限は無限ではありませんし、「人間を大切に思わない」のは俳人だけが失格であるのではありませんよね。

そういうところを留意していかなければと思うのですが。






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