日記:人生や仕事での主要な関心は、当初のわれわれとは異なる人間になることです。



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 −− あなたは、ごく頻繁に「哲学者」、のみならず、「歴史家」、「構造主義者」、「マルクス主義者」と呼ばれています。コレージュ・ド・フランスにおけるあなたの担当講座の肩書は、「思想体系の歴史の教授」です。このことの意味は何でしょう?
 わたしが何であるかを正確に認識する必要があるとは思いません。人生や仕事での主要な関心は、当初のわれわれとは異なる人間になることです。ある本を書き始めたとき結論で何を言いたいか分かっているとしたら、その本を書きたい勇気がわく、なんて考えられますか。ものを書くことや恋愛観駅にあてはまる事柄は人生についてもあてはまる。ゲームは、最終的にどうなるか分からぬ限りやってみる価値があるのです。
 わたしの専門領域は思想〔思考〕の歴史です。人間は思考する存在であります。人間の思考方法は、社会や政治や経済と関連しているが、さらに、きわめて一般的かつ普遍的なカテゴリーや形態上の構造とも関連している。しかし思考は種々の社会関係とは別の何かである。人々が実際に思考する仕方は、論理の普遍的カテゴリーでは適切には分析されない。社会と体系的な思考〔思想〕分析とのあいだには、小道、小路−−多分ごく細い−−があって、それこそは思考〔思想〕の歴史家がたどる小道なのです。
    −−ミシェル・フーコー、ラックス・マーティン(田村俶、雲和子訳)「真理・権力・自己  −−ミシェル・フーコーにきく−−」、『自己のテクノロジー フーコーセミナーの記録』岩波現代文庫、2004年、2−3頁。

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金曜日から後期の「哲学入門」の授業がはじまりました。

このところ涼しい日が続いていたのですが、今日は夏日。
大学に到着すると温度計は31度を示しており、やれやれ……なのですが、やれやれとも言っておれませんので、ゆる〜く、導入の授業をして参りました。

1年生の受講者がほとんどなので……そして、これはもう毎度毎度の話にはなってしまいますが……哲学とは何ぞや、というよりも、学問を修めるとは何ぞや、という話に力点がいってしまいます。

高等学校を含めてよいと思いますが、義務教育においては、それを理解して運用していくという「学習」が要求されますが、学問は、学習とは異なります。そうした基礎的な読み書きの力を、まあ、元にはしますけれども、結局の所は、1+1=?というようなものをうめていくのではなくして、自分が「おい、これ、どうなんだよ」っていうところを、仲間や先輩の手助け、そして先達の知見に耳を傾けながら探求していく……そこに尽きるのではないかと思います。

よく、学生から「哲学には答えがありませんね」と言われますが、「答え」は問題集の模範回答集に掲載されているわけでもありませんし、教師の私が開陳するものでもありません。結果として回答集やら私が開陳したものと同じであるかもしれません。

しかし大切なのことは、自分自身で納得のいくまで探求していくことではないかと思います。

ですから、授業ではそういう示唆をたくさん準備しておりますから……

「んんん????」

……と思ったときは、スルーすることなく、「では、どうよw」とツッコミを入れながら歩み出してほしいと思います。

結局はそうすることによって、これまで身につけてきた知識や習慣、常識といったものをいったんふるいにかけながら、たとえばそれを相対化してみたり、自分自身の「コトガラ」にしていくことで、自分とは関係のない他人事であった知というものが、いきいきとしたソフィアになるのではないかと思います。

これから15回の授業、どうぞよろしくお願いします。







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