書評:前田朗編『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか 差別、暴力、脅迫、迫害』三一書房、2013年。
前田朗編『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか 差別、暴力、脅迫、迫害』三一書房、読了。「憎悪言論」と訳されるように言論・表現の自由のうちで理解されがちだが、果たしてそうなのか。
本書は最良の「ヘイト・スピーチを克服する思想を鍛えるためのガイドブック」。
1「なぜいまヘイト・スピーチなのか」、2「憎悪犯罪の被害と対応」、3「ヘイト・スピーチ規制の法と政策」の順に、問題の所在、応答、展望する構成。ヘイト・スピーチは単なる言論ではなく歴史的構造的に生成された「ヘイト・クライム」であることを明らかにする。
積極的に差別を容認しないが憲法学は「表現の自由」のうちが多数説。しかし事柄を表現の自由の問題と誤解し、被害には目を瞑り、規制反対の代換案を提示できない解説の現状は識者が「差別放置知識人」として機能しているとの指摘に瞠目する。
本書は部落、アイヌや沖縄に対するヘイト・スピーチの現状も報告。お勧めの一冊です。
エリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』(明石書店)も読み始めた。「我々は自由を愛し、レイシズムを憎む。しかし、そうした価値が衝突したとき、我々はどうすればよいのだろうか」。自由と規制の軌跡を描く1冊
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日本国憲法に基づいた処罰
ヘイト・スピーチ処罰の世界的動向を紹介してきました。それでも一部の法律家やジャーナリストは「表現の自由が大切だからヘイト・スピーチ処罰をしてはならない」と強弁します。表現の自由の意味を理解していないからです。
第一に、日本国憲法二一条は「一切の表現の自由」を保障しているという理解です。日本国憲法第二一条一項は「集会、結社及び言論その他一切の表現の自由は、これを保障する」としています。「その他一切」とは、集会、結社及び言論、表現と並列して記されているもので、表現手段の差異を問わないという趣旨です。何でもありの無責任な表現の自由を保障する趣旨ではありません。そのような解釈は憲法第一一条と第九七条を無視するものです。
第二に、歴史的教訓です。国際人権法や欧州の立法は、二つの歴史的経験に学んでいます。一つは、ファシズムが表現の自由を抑圧して、戦争と差別をもたらしたことことです。もう一つは、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害のように、表現の自由を濫用して戦争と差別がもたされたことです。両方を反省しているから、国際自由権規約第一九条は表現の自由を規定し、同二〇条が戦争宣伝と差別の唱道を禁止しているのです。日本では、前者ばかり強調し、後者の反省を踏まえようとしません。
第三に、表現の自由の理論的根拠です。一般に表現の自由は、人格権と民主主義を根拠とされます。それでは新大久保に大勢で押し掛けて「朝鮮人を叩き殺せ」と叫ぶことは、誰の、いかなる人格権に由来するのでしょうか。日本国憲法第一三条は人格権の規定と理解されています。第一三条を否定するような殺人煽動を保障することが憲法第二一条の要請と考えるのは矛盾しています。第二一条よりも第一三条が優先するべきです。民主主義についても同じです。「朝鮮人を叩き出せ」と追放や迫害の主張をすることは、欧州では人道に対する罪の文脈で語られる犯罪です。これこそ民主主義に対する挑戦です。
第四に、法の下の平等を規定する憲法一四条を無視してはなりません。「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とする第一四条は、日本国籍者だけではなく、日本社会構成員に適用される非差別の法理です。第一四条が第二一条より優先することも言うまでもありません。
日本国憲法は、人格権、民主主義、法の下の平等、表現の自由を保障していますが、その具体的内容はそれらの合理的バランスの下に保障する趣旨です。人格権、民主主義、法の下の平等を全否定する「差別表現の自由」が保障されるはずもないのです。
前田朗「ヘイト・スピーチ処罰は世界の常識」、前田朗編『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか 差別、暴力、脅迫、迫害』三一書房、2013年、181−182頁。
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ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか - 株式会社 明石書店