書評:岡田温司『黙示録 イメージの源泉』岩波新書、2014年。
岡田温司『黙示録 イメージの源泉』岩波新書、読了。禍々しいイメージがつきまとう黙示録だが、本来の意味は「秘密のヴェールが剥がれること」。一体、どのような書物なのか。そしてその思想やイメージはどう育まれてきたのか。本書はテクストに忠実に寄り添い、人間の想像力に与えてきた影響の本質に迫る。
著者はまず黙示録そのものに焦点を合わせ、その全体像を浮かび上がらせ、新約・旧約に通底する黙示録思想を検討する。その上で、西洋史においていかに解釈されてきたのが俯瞰する。後半部分では、図象から映画まで黙示録の具体的イメージを読み解いていく。
宗教画から「地獄の黙示録」まで。黙示録の思想は救済と希望と勇気の源泉だが、一方で不寛容と暴力の源でもある。著者はその両存に注目する。日本で黙示録と聞けば「ムー」的オカルト的理解が大勢だからこそ、終末思想を正しく理解することは促す本書を読む意味がある。
「手を替え品を替えて繰り出されてくる黙示録や終末論のレトリックに、踊らされる必要は毛頭ないが、だからといって無視することもできない。いたずらに振り回されないためにも、その源泉や変遷を知っておくのも無駄ではないだろう」。
因みに現代の思想家で最も「黙示的」なのは、アガンベンと著者は言う。
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現代の哲学者のなかで、いちばん黙示録的なのは誰かと尋ねられたら、わたしは迷わずジョルジョ・アガンベン(一九四二生)と答えるだろう。このイタリアの哲学者は暴く、生きるに値する生とそうでない生の選択を否応なく迫ってくるような政治外交や医療の現実のなかで、わたしたちはかつてなかったほど「剥き出しの生」の現実にさらされている、と。内戦や宗教的対立によってもたらされるおびただしい数の難民、さらに高度の出生前診断や終末期医療にみるように、生を守るべき政治が、死を招くような政治へと不可避的に転倒してしまう時代を、わたしたちは生きているのだ(『ホモ・サケル』)。こうした状況を踏まえて、アガンベンは近年ますます、「所有」から「使用」へ、「豊かさ」から「貧しさ」への発想の転換を志向するようになっている(『いとも気高き貧困』)。それ自体、フランシスコ修道会的な理想でもある。
すでに何度も述べたことをくりかえすなら、黙示録の発想にはつねに二面性がある。警告は威嚇へ、激励は煽動へと容易にひっくり返る危険性があるのだ。それゆえ、いたずらに振り回される必要はないが、だからといって、知らないままでいたり、知らない振りをしたりすることはできない。しかも、一九八〇年代からの遺伝子工学や情報科学の著しい発達は、期待と不安、リスクとセキュリティの関係を、さらに複雑なものにしている。というのも、科学技術によるリスクからの解放とセキュリティの担保という謳い文句のもと、さらに想像を絶するような新たなリスクがもたらされるという状況が、いたるところで出現しているからである。いたずらに終末や黙示録を振りかざすのでも、あるいは逆に、黙示録的なメタ物語を拒絶したり無視したりするのでもない、第三の道。それがわたしたちに求められているように思われる。
−−岡田温司『黙示録 イメージの源泉』岩波新書、2014年、135−136頁。
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