覚え書:「引用句辞典 トレンド編 匿名性の原理が阻む “きずな”の構築」、『毎日新聞』2014年06月22日(日)付。

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引用句辞典
トレンド編
匿名性の原則が阻む
“きずな”の構築
鹿島茂

[ぼっち席]
 「君はまだぼくには、ほかの十万人の子どもとまるで違いがない子どもさ。だから、ぼくは君がいてもいなくても気にしない。君のほうでも、君はぼくがいてもいなくても気にしないのだろ。ぼくは君には、十万匹のキツネと同じような一匹のキツネさ。だけど、君がぼくのなじみになってくれたら、君とぼくとはお互いになくてはならない者同士になる。君はぼくにとって、この世でたった一人の子どもになるし、ぼくは君にとってこの世でたった一匹のキツネになるのさ……」
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ星の王子さま』稲垣直樹訳、平凡社

 新校舎に移転し、毎週、大学の食堂で食事をとるようになった。驚いたのは「ぼっち席」と呼ばれる一人用の席がかなりの面積を占めていること。「ぼっち席」とは、大きなテーブルの真ん中に視線を遮る衝立が置かれていて、一人ぼっちの人間でも落ち着いて食事できるよう工夫された席のことである。私はこの「ぼっち席」に座ってカレーライスを食べているうちに、ゆくりなくも『星の王子さま』の有名な一節を思い出した。
 地球にやってきた王子がキツネを見つけて一緒に遊ぼうよと誘うと、キツネは「ぼくは君とは遊べない」「なじみになってもらっていないからね」と理由を述べる。「なじみになる」と訳されている言語はapprivoiser。野生動物を飼い馴らすという意味の特殊な動詞である。王子は突然そんな言葉は聞いたことがないから、意味を尋ねると、キツネは『きずなを結ぶこと』だと言い換え、「十万人の子ども」と「十万匹のキツネ」の関係性を説明し始めるのである。
 これは私流に解釈すれば「匿名性の原則」が支配する現代の社会においては、同一空間に一定時間一緒にいて積極的に相手の警戒心を解こうと努めない限り、「十万人の子どものうちの一人」が「たった一人の子ども」になることはありえず、友情も愛情も決して芽生えないという「関係性構築の困難さ」について語っているのだ。コンビニで毎日、同じ時間に同じモノを注文する客がいたとしても、従業員は「いつも同じ時間に同じモノを買っていきますね」などと話しかけてはならず、あくまで知らない者同士がモノと貨幣を瞬間的に交換するという貨幣経済の匿名形式を踏まなければならない。コンビニの「いらっしゃいませ」は「おれ(わたし)とあんたは赤の他人だからね」という匿名性原理の確認なのである。
 では、なにゆえにこうした匿名性の原則が支配する社会になってしまったのか?
 そのほうが面倒くさくないからである。全員が顔見知りでプライバシーが存在しない下町の長屋のような社会は鬱陶しいし、面倒くさいから、「お互いに赤の他人という約束にしよう」ということになったのだ。お互いが「たった一人の人間」になるよりも、全員が他人であるほうが面倒くさくないのである。そして、その面倒さ回避のためにありとあらゆる代行業が誕生したのである。これが日本社会の現状なのである。
 かくて、現代日本という星に舞い降りた「星の王子さま」は、匿名性の原則に阻まれていつまでたってもキツネを飼い馴らすことができず、理の当然として「きずなを結ぶ」こともかなわず、ひとり寂しく大学食堂の「ぼっち席」に座り続けることになるのである。
(かしま・しげる=仏文学者)
    −−「引用句辞典 トレンド編 匿名性の原理が阻む “きずな”の構築」、『毎日新聞』2014年06月22日(日)付。

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