覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『言語起源論の系譜』=互盛央・著」、『毎日新聞』2014年07月13日(日)付。

2


        • -

 
今週の本棚:三浦雅士・評 『言語起源論の系譜』=互盛央・著
毎日新聞 2014年07月13日 東京朝刊

 (講談社・2484円)

 ◇ナショナリズムとの切り結びの文化史

 「面白くてためになる」本である。さながら小説のように読める思想史。名著と言っていい。平凡な舞台が強烈な照明によって画期的な芝居に変貌するようなものだ。語り尽くされた感さえある西洋思想史に、言語起源論という強烈な照明を当てて見せたわけである。思想家とその思想が、思いがけない陰影のもとにくっきりと浮かび上がってくる。たとえば、リルケの詩を介してヘーゲルの言語論からラカンの言語論への展開を一瞬のうちに素描する−−言葉はあらゆる事物を殺害する−−など(第三章)、名優の舞台を見ているような気がする。

 言語起源論が強烈な照明になるのは当然である。人が物を考えるのは言語によってだからだ。むろん動物も考えるし、人間も動物であることに変わりはない。政治家がしばしば動物に喩(たと)えられるのは動物のように考えているからだ。戦略とか戦術とかはその次元にある。ただ、考えることについて考えるときに言語が必要になるだけなのだ。たとえば起源を問うのは言語によってである。起源を問う言語の起源を問うこと、その系譜をたずねることが、強烈な照明にならないはずはない。

 言語起源論の系譜をたずねる本書は、「言語の起源という問題は、現に与えられている重要性をもたない。この問題は存在すらしない」というソシュールの言葉で始められる。言語起源論など存在しない。にもかかわらず、人は言語の起源を問う。自己の起源を問う。奇怪にもそれが言語の必然だからだ。主語、述語、目的語をもつ言語の必然。主語の欠けた文は主語をたずねなければならない。結果的に言語起源論はつねにその時代のイデオロギーとして機能する。こうして本書は、西洋近代に発するナショナリズムと言語起源論がいかに切り結んできたかを克明にたどる文化史に転ずる。

 国家(法)も貨幣も言語も、その起源すなわち権威の源をたずねて、神授説と契約説のあいだを揺れてきた。契約説の欠点は、最初に、相手の誠意を一方的に信ずるという賭けがなされなければならないということだ(ホッブズ問題−−第四章)。この賭けは契約説のさなかに神授説を持ち込むのに似ている。日常を見ると明らかだが、相手を一方的に信ずるという賭けは、母親と乳児のあいだに日々行われていることだ。赤ん坊は−−その無力はほとんど暴力的なものだ−−最初の承認をめぐる闘争に勝利したから、すなわち愛を得たから人間になるのである。だがそれは、喃語(なんご)が国語に読み替えられてゆく過程、すなわち制度を無限に、ほとんど乳を飲むように受容してゆく過程と表裏なのである。

 面白い文化史を描くことなど、著者にとってはちょっとした迂回(うかい)にすぎないだろう。言語の起源は日々生起している。その場面に立ち会うことのほうがよほど重大だ。本書が、カスパー・ハウザーという野生児の紹介から始まり、ベンヤミンの言葉「カスパーの物語に本当の終わりはない」で閉じているのはそのことを示唆している。参照されるリルケランボーの詩にしても同じだ。だが、迂回こそ文学の楽しみであるとも言える。

 本書の論点はそのまま、たとえば平田篤胤(あつたね)の言語論などにも当てはまるだろう。中国語、中国文学にも広げられうるだろう。東洋思想史は語り尽くされてはいない。だが、さらに興味深いのは、大著『ソシュール』から『エスの系譜』を通って本書にいたる著者の軌跡が、ジョルジョ・アガンベンの思想への接近を思わせることだ。本書が、デリダのディコンストラクショニズム以後の新たな思想的展開を予感させる理由である。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『言語起源論の系譜』=互盛央・著」、『毎日新聞』2014年07月13日(日)付。

        • -


http://mainichi.jp/shimen/news/20140713ddm015070021000c.html





Resize1595


言語起源論の系譜
言語起源論の系譜
posted with amazlet at 14.07.13
互 盛央
講談社
売り上げランキング: 1,044