日記:しっかりとものを考えた思想家の本をはじめから終わりまで読み通し、その文体に慣れ、その思考を追思考すること

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思考の訓練
 普通の人間にとってものを考えるということは、そう容易なことではない。目をつむって、さて何かを考えようと思っても浮かぶのは妄想のたぐいであろう。ものを考えるには特殊な訓練が必要である。その訓練として私に考えられるのは、しっかりとものを考えた思想家の本をはじめから終わりまで読み通し、その文体に慣れ、その思考を追思考することである。いろいろ考えてみたが、私にはいまのところそれ意外の方法は思い浮かばない。原語で読むに越したことはないであろうが、翻訳でも仕方があるまい。(もっとも、しっかりした翻訳でなければならない。) そうした本を毎日続けて読んでいると、次第にその文体に慣れ、そこで言われていることがよく分かるようになってくる。おそらくこれが追思考するということなのであろう。そうした訓練を重ねることによってはじめて、ものを考えることができるようになるのである。
 私は大学院の指導学生には、徹底してテキストを正確に読む訓練をする。それ以外に哲学の大学院で教師としてできることはないと思うようになった。はじめは翻訳のあるテキストを使うが、それが読めるようになると、次には翻訳のないテキストを読ませる。何年もかかる訓練だが、こうして本がキチンと読めるようになると、不思議に書く論文も筋の通ったよいものになる。もうサワリ集のような論文は書けなくなるのである。おそらくこれは、本を正確に読むことによって追思考し、ものを考える訓練をするからだろうと思う。哲学的思考に習熟する最良の方法は、まず自分の体質に合った思想家を探し、その思想家がもっとも力を入れて書いたテキストを一定期間毎日つづけて読み、はじめの一頁から最後の一ページまで読み通すことであろう。
 もう一つ付け加えると、学生たちが好んで口にする言葉に「問題意識」というのがある。つまり、テキストを正確に読むだなんてことよりも問題意識が大事だ。問題意識がなければ、いくら語学的に正確に本を読んだって仕方がない、というわけである。これは、たしかにそのとおりである。むろん一冊の本を選んで、半年なり一年なり毎日読み続けるということは、その本に対するよほど強い興味なり関心なりがなければできるものではない。しかし、興味といい関心といっても、当の本をまだ読んではいないのであるから、解説書なり紹介書なりを通じて得た知識にもとづくまだ漠然とした見当、共感にとどまる。問題意識というのは、どうやらそうした見当や共感のことを言うらしい。そうした意味での共感は、たしかに重要である。それがなければ、なにごともはじまらない。しかし、そうした「問題意識」なるものは、自分でテキストを読み通すことによって練りなおし鍛えなおす必要がある。そうしてはじめてそれは真の問題意識になるのであり、それをしなければ、それはただの受け売り、ただの見当に終わってしまう。
    −−木田元『わたしの哲学入門』講談社学術文庫、2014年、70−72頁。

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18日の金曜日で、勤務先のひとつの短大での「哲学入門」が無事終了。最終講義は、映画『ハンナ・アーレント』のラストシーンの講義を彷彿とさせるものでありました(嘘w

ともあれ、15回の講座に出席してくださりました履修生のみなさま、まずはありがとうございました。

さて……。
授業のなかで、何度も言及したのが、

1)自分で考えるということ
2)自分で考えるだけでなく、対話という回路を使って他者と相互吟味すること
3)本をきちんと読むこと。

ヤミ屋からハイデッガー研究者になった木田元先生もご指摘しておりますが、「目をつむって、さて何かを考えようと思っても浮かぶのは妄想のたぐい」ぐらいですから、まずは、考えるためにも、いい本を読んで欲しいと思います。

ネットで次々に情報が更新される時代だからこそ、そういうものに振り回されるだけでなく、古典とよばれるものと向き合いながら、自分で考え、他者とすりあわせていって欲しいと思います。

ともあれ、みなさまありがとうございました。




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