日記:ポストコロニアル批評の嚆矢サイードが普遍的価値にこだわること
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真実を語るという目標は、わたしたちの社会のように管理された大衆社会では、おもに、よりよい状況を構築すること、そして既知の事実に適用されておかしくない一連の道徳的原則−−平和、和解、苦悩の軽減−−といえるようなものを構想することである。
−−エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年、153頁。
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昨夜は、有志の研鑽会「コロンビア大学コア・カリキュラム学習会」の第8回目。
月に一度の学習会ですが、まあ8回も良く続いたなというのが実感で、できるだけ長く続けたいと思いを新たにした次第です。
8月からカリキュラムからいったんはずれたテクストを読んでいるのですが、10月度はサイードの古典的名著『知識人とは何か』(平凡社)を取り上げ、闊達なやりとりができました。
さて、サイードと言えばポストコロニアル批評の嚆矢ですが、彼が「平和」や「苦悩の逓減」、「基本的人権」や「公正さ」といった「普遍的価値」を素直に認めていることに、コーディネイターが「意外でしたが」と表現してましたが、これは意外でも何でもない。
たしかに「大文字」の「普遍的」にパルチザンを仕掛けるのがポストコロニアル批評になりますから、「意外」と表現したのでしょうが、実に、意外でも何でもない。
勿論、これは「有機的知識人」としてのサイードの「対峙」というスタイルに由来することもありますが、何ンでもかンでも「普遍的」と表象される事柄に対して「うがってやろう」とするポスト・モダン批評の「いやらしさ」への対峙も含まれている。
勿論、ポスト・モダンその批判する先験的真理の実在論の問題は承知しますが、その普遍的の位置に違いがあるといえばいいでしょうか。
基本的人権の尊重といった公共世界で「普遍的」とみなされる価値観とは、真理が先験的に実在するという「普遍的」とイコールではなく、人類がその歴史を通して、相互のとりきめとして「設定」したア・ポステオリ価値として定位している。では「ア・ポステオリ」だからとか「西洋」に由来するから、相対的なもので地域や時代によって「相対的」に扱ってもよい価値なのかと誰何すれば、それは早合点すぎるでしょう。
人類がその歴史のなかでそう設定したということは、言い換えれば、人間が安全に生きていくための最低限の「とりきめ」として「設定」した、いわば「セーフティネット」。ベクトルがいわば逆な訳で、そうした諸価値が「尊重」しなければならない「最高規範」というではなく、「最低限、これだけは守らないとお話にならない」というもの。その意味において、その内実を豊かにする検討はなされてしかるべきでしょうが、その内実を破壊する検討はしりぞけられてしかるべきということになります。
ポストモダンを気取って「フラットに考え直してみましょう」と提案を装い、基本的人権の尊重を始めとする公共世界の流儀の「普遍的」と表象することにいちゃもんをつけても詮無い訳です。
そういう何でもいちゃもんをつけていく態度が、国家による「基本的人権の尊重」の抑制への露払いになった感がありますから、たいへん残念残念な話であります。
「フラットに考え直してみましょう」おおいに結構ですけれども、何を「フラットに考え直してみましょう」かは検討されなおしてしかるべきでございますがな。
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権力に対して真実を語ること。これは、パングロス的な理想論ではない〔パングロスはヴォルテールの『カンディード』の登場人撃つ。楽天家の代名詞〕。それはさまざまな選択肢を慎重に吟味し、正しい選択肢を選び、それを最善をさしうるところ、また正しい変化をもたらしうるところで知的に表象(レプリゼント)することなのである。
−−エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年、156−157頁。
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