日記:マリオ・バルガス=リョサの『世界終末戦争』(新潮社)を「読む」ということ

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先週の金曜日は授業を終えてから月一の読書会へ。

毎月一回、コロンビア大学の教養教育カリキュラムの課題図書を取り上げ、「読む」という集いをしておりますが、この秋は番外編として参加者おすすめの1冊をそれぞれとりあげてきましたが、今回はマリオ・バルガス=リョサの『世界終末戦争』が課題図書。

おれたちはどこにいるのか、そして何をなすべきか、認識が常に更新される一冊だった。二項対立とフラットという欺瞞とどう決別すべきか。恐るべき一冊。

何で人間が人間を殺し合わなければいけないのか。その矛盾をついたのがトルストイの『戦争と平和』。リスペクトを込めつつ刷新したのがリョサの『世界終末戦争』なんだろう。リョサはあえてイデオロギーを語らないし、普遍的価値観をも語らない、しかし、そこには「人間の現在」を否定しない地平がある。

幾重にも差別と搾取がからめとられた南米文学は読んでいるつもりであったが、リョサはの著作は初めてであり、よみながら強烈なショックを覚えた。「ショックを覚えた」という言葉すら欺瞞に他ならないわけだけど、南米の過去・現在が私の今であるとすれば、リョサの筆致は他人事ではない。

歴史「主義」としての過去の断罪は何の値打ちもない。同時にだと言ってその瑕疵がスルーされてもよい訳ではない。そして「現実はこうですから」と訳知り顔でしかたがないと言われて始まらない。リョサは結論を書かないが、そう、そういういまから、「はじめるしかない」。深い余韻が今なお離れない。

おのれの潔白さを証明するが如き隠棲も不要で在れば、同時に、この浮き世は矛盾だと居直ることも柔軟に退けなければならない。矛盾を撃ちつつも、生-権力の享受とは決別した「しんどさ」をひきうけること。これがためされているように思う。
 
コメンテーターを務めた金型設計のおっちゃんが言う「きちんと本を読むことができる人間は、きちんとしたものを書き、発信もできる」という言葉が頭に残っている。

複雑な人間世界、時には苦渋に満ちた選択をせざるを得ないことは承知する。しかしながら、「げんき」だの「感謝」だのという、みつお式の「にんげんだもの」の如き言葉に、葛藤・逡巡・熟慮・決断といったプロセスを垣間見ることは不可能だと思う。現状認識と現状容認は似ているようで全く異なるものでしょう。

考えるということと程遠い、「幼稚化」というものがものすごいスピードで時代をまとめあげようとしていることに戦慄してほしい。そしてそのことが「苦渋の決断」とはほど遠い「自己弁解」をそれと錯覚することへ連動している訳ですよ。

リョサの作品と対峙すること、読むと言うこと。それはすなわちキャッチコピーの如きワンフレーズ「消費」とは対極にあるものだろう。こうした営為が今こそ必要だと思う。





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