覚え書:「寄稿:日本の歴史と衆院選 作家・冲方丁」、『朝日新聞』2014年12月26日(金)付。

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寄稿:日本の歴史と衆院選 作家・冲方丁
2014年12月26日

 今回の衆議院選挙は大方の予想通りの結果となった。印象的だったのは、とことん日本的なあり方があらわになった、ということだ。

 特に、衆議院選挙の投開票日、安倍首相がニュース・キャスターの質問に対し、イヤホンを外して自説のみを述べるという一幕があった。その是非はさておいて、あの一幕はどうして起こり得たのだろうか? そしてそれは何を意味するのだろうか? 決して、安倍首相個人の性格に全て起因すると考えてよいものではないだろう。日本人全員のあり方の帰結であり、むしろ我々自身を見直すべきではないか。そう思わされた一幕であった。

 古来、政治の命題は数多く存在するが、中でも重要な問いが二つある。

 一つは、「人は意思を統一できるのか?」というものだ。またもう一つは、「人は富を分配できるのか?」というものだ。

 これらの問いに答えるべく、様々な国、様々な時代で、思考と実践が重ねられてきた。その中で特定の思想が受け継がれた結果、誰が作ったともいえない、その国独特の空気が形成される。人々の生活に影響を与えるのは、過去の思想そのものではない。思想によって形成された空気であり、それがときに政治的命題さえ左右するのである。

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 まず、「人は意思を統一できるのか?」という問いに対し、日本の支配者層も一般民衆も「できる」と答えてきた。少なくとも答えようとしてきた。さもなければ今でも自分たちの近くの地域にいる者達を意思統一が不可能な異民族ととらえ、抗争を繰り返しているはずである。

 だが日本人は、「天下」という言葉に、万国・万人というニュアンスを感じるように、多少の文化的差異があれども、それらを超越する共通の何かが存在するとしてきた。それが日本人独特の融和や緩衝のあり方を形成してきたのである。

 では、その意思統一の具体的な方法は何であったか。多くの国々と同じように、もっぱら支配者層による、「黙れ」という命令であった。そして日本の特徴は、民衆が率先して、その命令を自発的行為として受け入れてきたということだ。地域全体はもちろん、企業内でも家庭内でも、黙々たる忍従を、美徳としてきたのである。

 ではこの命令を誰が発してきたか? 日本の歴史を俯瞰(ふかん)したとき、はっきりわかるのは、日本は応仁の乱以降のほとんどの時代で、軍事政権しか経験していないということだ。

 軍事政権というと、ぴんと来ない方もおられるだろうか。つまりは戦闘を担う武家層による政治である。その伝統は現代にも連綿と続き、政治形態のみならず様々な面で軍事的な発想が見られる。たとえば子供に着せる学生服からしてもとは軍服である。号令による一斉行動を幼少から叩(たた)き込む。論を戦わせていては一斉行動に支障が出ると考える。

 日本人はそうした沈黙と忍従を、最も効率的な意思統一の方法であるとし、純朴に守ってきた。それが現代の妄信的ムード主義とでもいうべき生き方の根本であろう。「空気を読む」「以心伝心」「あうんの呼吸」など、無言のうちに意図を察し、異論を挟まないことは今でも良いこととされる。それはもはや思想として語られるものではない。無意識のうちに刷り込まれた、この国に住まう人々に特有の生活態度である。

 為政者が民衆の声を無視して一方的に命令し、一斉行動を促す。たとえ民主主義に反していても、それを望む人々がいるということを無視してはならない。なぜならそれが長らくこの国を繁栄させる上での最適解だった、という逆らいがたい事実があるからだ。

 では、なぜそうした意思統一の方法が成り立ったのか? 黙従の美徳の大前提は、人間が自由に住み処(か)を変えないということである。いわゆる「一所懸命」だ。一つの場所に命を懸けねばならず、流浪は哀れなことであり、生涯の居場所がないことを嘆かわしく思う。個人の都合で移住しようとする人々は、下手をすれば懲罰の対象になるか、社会保障を受けられなくなるのが、この国の長年の常識だった。

 だが現代に至り、その長い歴史に反する事態が起こった。人々の激しい流出入である。

 現代では条件が整いさえすれば住む場所や勤め先どころか、国籍さえ自由に変えられる。それが、この国の伝統的な意思統一のあり方を困難にしてしまった最大の要因だ。のみならず、第二の命題である「富の分配」を根本から成り立たなくさせているのである。

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 日本は「富の分配」についても「できる」と答える国だ。社会維持のため、富の集中を緩和し、全体に行き届かせることが社会維持に有効だとしてきた。そのためには逆説的に、富を生み出すための中心地ないし中心人物が必要となる。富裕層がいてくれなければ、そもそも分配すべき富は生まれない。貧者救済のため、ときに富裕層を優遇し、地域に雇用を生み出すよう仕向ける。そうすることで社会維持をはかる。

 そうした富の分配を支えてきたのが、これまた黙従と一所懸命の態度である。富の中心を設けてのちは、それが政府と対立する勢力とはならず、移動もしないものとして考える。あるいは黙従して不動のものほど政治的に優遇する。

 だが国際化が進むことで、そうした大前提が崩れてしまった。今回の選挙でまったくといっていいほど話題にならなかったのが、富の移動だ。たとえば、富裕層が続々と日本から出て行き、資産を外国に預けてしまう傾向にどう歯止めをかけるのか? また、外国の労働者をいかにして受け入れていくか? これら二点がまったく議論されないのである。

 富が出ていき、労働力が確保できないというのは、地方が過疎化する大きな要因だ。それが今、国全体で起ころうとしているのである。だが取りざたされるのは、景気、課税、生活保障に関することばかりだ。「日本の過疎化」などあり得ないとしてしまっている。

 それはなぜか? 日本の意思統一と富の分配は、先に述べたように住民の大半が不動であることを前提にしている。そしてさらにその前提にあるのが「海外」という発想だ。海の外は自分たちと関係がない、現実感が持ちにくい、という長年の心のありようだ。

 そもそも外国を「海の外」と呼ぶのは、地政学的にごく限られた国だけである。中でも日本はきわめて特異な位置にある。大陸の最果てにあり、東は太平洋が広がるばかりで移動はほぼ不可能だった。つまり歯止めをかけずとも富が移動しなかったのである。それどころか、勝手に富がやってくるのが当たり前だった。最先端の文化や経済が、大陸の端にある日本へ流れ込み続けてきたのである。海の向こうから漂着したものを享受し、加工することに長(た)けてきたが、輸出入という発想を獲得できたのは、限られた人々だけだった。輸出入の大前提となる外国との融和においても、日本人的な感性で対処すればよく、強固な政治的原則や法の制定が必要となる事態など、あまりなかった。

 それが悪いとは一概には言えない。世界が驚くような、日本独自の発想や高い技術を生み出せたのも、島国としての独立、安定、融和があったからだ。一国でこれだけ異なる地域文化を内包しながら、民族間の激しい不和に悩まされずにきた。富の激しい流出入で、たびたび経済が崩壊するということもなかった。富の一極集中によって飢餓が日本全土に蔓延(まんえん)し、政権が崩壊するといった事態を防ぐ知恵を身につけていった。そうした島国としての安定によって、長い間、沈黙と忍従の美徳が効果を発揮してきたのである。

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 だが今やそうした大前提はことごとく崩れ去った。テクノロジーが、人、資源、情報、富、労働力を目まぐるしく移動させることを可能にしたからである。どの国も、より複雑な外交問題、より異なる文化との接触、より莫大(ばくだい)な富の集中に直面するようになった。様々な国が、そうした新たな社会問題に取り組み、新時代に適応する道を模索している。

 一方で日本は従来の意思統一と富の分配の前提が崩れたにもかかわらず、これまでの歴史とあまりに違うせいで問題を実感しにくくなっている。地政学的な優位はもはや成り立っていない。富裕層はこのままでは黙って従うのではなく、黙っていなくなるだけである。世界の富裕層を日本に住まわせるための特例措置や、海外の労働力を確保するための法律の制定など、どれも長い歴史の中で必要としなかった。人種差別を違法とすることの是非を激しく論じる、といったこともしていない。最新の問題に積極的に取り組む諸外国に比べ、日本は政府も民衆も経験が浅いまま、ここまで来てしまったのである。

 さらにまた、この問題を議論しにくくしている要因がある。安倍政権および自民党復権的であるということだ。いったん権力の座から追い落とされた人々が、復権する過程で味方につけるのが、社会に不満を抱きながら、その社会と自分とを一体化せざるを得ない人々である。そうした人々の特徴は、経済力など様々な事情によって自由に移動できず、容易に職業を変えられないということにある。

 地域社会と自分を一体化させ、そのことで苦しみ、またそのことを誇りとする。団結を是とし、異論を嫌い、黙従を美徳として称(たた)える。言うまでもなくナショナリズムとの親和性も高い。だがあくまで一地域の盛衰や文化維持を問題とする人々であって、政府が持つべき大局観と相反する場合が多い。一地域の問題が大前提なのだから、世界情勢など二の次となる。しかし復権者による政府は様々な局面で、こうした人々を重要な支持層として政策を推進せざるを得ない。結果、政府が大局観と相反するものを抱え、むしろ政府が民衆から黙従を強いられるような、官・民の態度逆転、自縄自縛、あるいは衝突が起こる。

 とはいえ、これまた一概に悪いこととは言えない。今の中国のように、そうした経験から学んできた政府もある。だがかつてのソ連のように、崩壊した政府もある。日本が今後、国際的にどのような役割を負うかにもよるだろう。何が国の利となり害となるか、これほど先の見えない時代も珍しい。だが少なくとも、自分たちがかつてどうあったかを知り、これから先どうあるべきかを決めねば、内政でも外交でも立ち往生するばかりである。

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 うぶかたとう 77年生まれ。SFから歴史小説まで幅広く執筆する一方、漫画の原作やアニメの構成・脚本も手がける。「天地明察」「マルドゥック・スクランブル」など著書多数。 
    −−「寄稿:日本の歴史と衆院選 作家・冲方丁」、『朝日新聞』2014年12月26日(金)付。

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