覚え書:「ストーリー:自衛隊初の特殊部隊 国民の知らない訓練」、『毎日新聞』2015年02月08日(日)付。

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ストーリー:自衛隊初の特殊部隊(その1) 国民の知らない訓練
毎日新聞 2015年02月08日 東京朝刊

(写真キャプション)照準の先には−。自衛隊初の特殊部隊創設に携わった伊藤祐靖さんは、いま後輩たちに自身の経験を伝えようとしている。技術、そして信念も……=東京都内で、武市公孝撮影

 東京・下町のビル。2階のその部屋は、何度入っても、ぎょっとする。小銃、拳銃、アーミーナイフ、さまざまな武器が壁一面に掛けられている。潜水フィンに東南アジアの小刀、普通に見えるロープが水中では簡単に首を絞める道具になるという。銃はエアガンで刀類は届け出済みだが、元海上自衛隊2佐の伊藤祐靖(すけやす)さん(50)の事務所は、まるで「武器庫」だ。

 新年会のために集まった約10人の「生徒」たちが、興味深げに壁の武器を眺めている。「海から上がるときの要領だが……」。声をかけながら伊藤さんが床にスッとはいつくばると、輪ができて、即席の講義が始まった。いかに気配を消して砂浜を進むのか。あるいは、弾詰まりした小銃の代わりに腰の拳銃をサッと素早く取り出す方法など。

 昨年末、都内の屋内施設。同じ生徒たちの射撃トレーニングを見た。4人ずつ、5メートル先の直径3センチの的を黙々と撃つ。全員が銃口を下に構えると、5発を撃ち終わるまでの時間や持ち手を右・左に替える指示が出る。開始のブザーと同時に、エアガンからプラスチック製の弾が。的に当たる「ピシーッ」という音が響く。4人の練度が上がると、音はひとつになる。自衛隊初の特殊部隊「特別警備隊」(特警隊)にいたころ、伊藤さんは実弾を毎日500発、撃ち続けた。引き金を引く右人さし指は変形した。「うまくなったよ。昔の俺よりはるかにうまい」。その声で緊迫した空気がようやく緩む。いつの間にか、3時間がすぎていた。

 現役自衛官たちが熱望して始まった「私塾」は、もう2年続いている。「戦争になったら、いまの訓練では足らない気がして」「死んだとき、ご先祖様に言い訳したくないから」。参加理由を聞いたら、そんな答えが返ってきた。正規の訓練だけでは飽き足らないのだ。

 だが、特警隊の創設にかかわった伊藤さんは、なぜ、自衛隊を辞めたか。その答えは、国民の目に明らかにされることのなかった「特殊部隊」という存在そのものの中にあった。【滝野隆浩】 
    −−「ストーリー:自衛隊初の特殊部隊(その1) 国民の知らない訓練」、『毎日新聞』2015年02月08日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/m20150208ddm001040139000c.html

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ストーリー:自衛隊初の特殊部隊(その2止) 「特殊部隊」に生きる
毎日新聞 2015年02月08日 東京朝刊

(写真キャプション)海上から島へ、ひそかに上陸する方法を教え子たちに伝授する伊藤祐靖さん。脳裏に裏切る島影はどこなのか=東京都内の伊藤さんの事務所で


<その1>自衛隊初の特殊部隊 国民の知らない訓練
 <1面からつづく>

 ◆「命をなげうつ」意味とは

 ◇「死」迷わない人生観

 海上自衛隊の「特別警備隊」(特警隊)は、16年前の事件をきっかけに創設された。その現場に、伊藤祐靖(すけやす)さん(50)はいた。当時34歳。

 1999年3月22日は終日、強い北西の風が吹いていた。イージス艦みょうこう」の航海長だった伊藤さんは、母港である京都府舞鶴市内の書店で、呼び出しを受けた。急ぎ帰艦。行き先を聞いても、艦長は「今は言えない」と言った。午後3時、緊急出港。自衛隊の歴史に特筆される「能登半島沖不審船事件」の始まりである。

 翌23日午後、のちに北朝鮮のものと確認される不審船を発見。夜半まで海上保安庁の巡視船とともに追跡した。だが、逃げる速度は速く、巡視船は脱落する。日付が変わって24日午前0時50分すぎ。艦内に<カーンカーンカーン……>と警報が鳴った。<総員戦闘配置につけ>。「海の治安出動」といわれる海上警備行動が史上初めて下令され、不審船を停止させるための警告射撃が命じられた。

 暗黒の海での追跡劇。127ミリの砲弾がごう音とともに飛んでゆく。命中させる訓練をしてきた乗員にとって、「当てない」警告射撃は困難を極めた。逃げる不審船への着弾距離は200メートル、100メートル、50メートルと限界まで近づく……。不審船が唐突に止まった。伊藤さんは緊張した。「拉致された日本人が乗せられているかもしれませんでした。海保がいないので、我々が立ち入り検査をしなければなりません。ただ……」

 目の前の不審船をそのまま帰すわけにはいかない。北朝鮮による拉致問題はたびたび国会でも取り上げられるようになっていた。ただ、海自隊員にとって「立ち入り検査」は想定外。訓練は当時、一度もしたことがなく、艦内には防弾チョッキすらなかった。

 それでも決断はなされた。再び、艦内スピーカーからくぐもった声が流れた。<立ち入り検査隊、集合、食堂>。隊の編成が実際に命じられたのだ。うそだろ、マジか……。不審船には間違いなく武装工作員が乗っている。必死の抵抗、自爆死もある。やれるのか。やらせるのか……。直属の部下が極度の不安を顔に張りつかせていた。伊藤さんは諭した。「可能不可能の問題じゃない。誰かがやらなければならないなら、我々が命を投げ出すことになっているんだ」。部下は「ですよねー」と言った。その軽さに、胸が痛んだ。準備のため、その場はいったん解散となる。

 10分後−−。約20人の隊員たちが戻ってきた。カポックと呼ばれる灰色の救命胴衣の下に、漫画本をガムテープで腹に巻いて。防弾効果はあまりないのに。漫画本には仲間たちが励ます言葉を殴り書きしていた。10分前と打って変わって覚悟を決めた隊員たち。吹っ切れた表情を、伊藤さんは忘れられない。

(写真キャプション)伊藤さんの事務所の壁には、中国が領土的野心をあらわにする尖閣諸島の海図が張られていた

 不審船は再び発進。早朝までに2隻が防空識別圏(ADIZ)を越えたことが確認され、任務は終了した。創設60年の自衛隊は一人の戦死者も出していない。ただ、この事件は任務部隊がその歴史上、最も「死」に直面した事件だった。船が発進せず、隊員が突入していたら−−。

 同様のケースに対処できる専門部隊が必要だと、伊藤さんは直訴した。政府、自衛隊内でも危機感は強まっており、初の特殊部隊・特警隊の創設が決まった。<不審船を取り逃がしてしまった>という組織的な無念さが強く働いたのだ。同年末に準備室ができ、強く希望した伊藤さんは、創設メンバーに選ばれた。わずか3人で準備は始まった。

 米陸軍グリーンベレー、米海軍シールズはじめ、英SAS、ロシアのスペツナズ。主要国は特殊部隊を持っている。ただ、その編成、装備、訓練内容については「極秘」。特警隊創設の際、同盟国の米国でさえ、情報の提供を拒否した。先任小隊長に内定していた伊藤さんらはハリウッド映画を見、市販本を読むことから始めなければならなかった。

 「敵」の船にどう乗り込むか。ヘリから急降下か、潜水して静かに近づくのか。どんな装備が必要で、訓練をどうやるか。何より、隊員にはどんな資質が必要なのか。「視力1・2以上」「体力検定上級者」。そして伊藤さんが最も重視したのは「人生観」だ。危険きわまりないオペレーションになる。一瞬の迷いもなく「死」に飛び込めるのか。

 「任務完遂だけが目的です。自分の命を犠牲にすることに何の悲壮感も持たない、そんな人生観を持った者を集めたかった」

(写真キャプション)厳しい訓練で伊藤さんの指は、銃の引き金を正しく引けるように変形していた
 2001年3月、旧海軍兵学校のあった広島・江田島に約100人の部隊が創設された。史上最強の部隊をつくろうと伊藤さんは隊員たちと訓練に明け暮れる。夜間・閉所での射撃を習得し、一般部隊の1000倍は弾を撃ち、夜間無灯火の潜水行動を訓練した。突入したら5秒で敵を制圧するために……。休暇は人脈を頼って外国の専門家に会いに行き、教えを請うた。世界各国軍の武器の知識も集めた。

 04年、水上以外の作戦を担当するため、陸自に「特殊作戦群(特戦群)」が創設された。

 伊藤さんは「日本体育大学特待生」という自衛隊では変わった経歴を持つ。短距離走者として記録に挑み続け、卒業後は高校の体育教師に内定していた。だが、なぜか飽き足らなさを感じ、一転、海自に入隊した。「もやもやして、一生こんな不完全燃焼のままで終わるのかと思って」。その後、幹部候補生学校に進んだ。

 入隊前日、東京都内の実家で「儀式」をした。部屋の手紙、本、服などを全部燃やし、髪を切って遺書の封筒に入れ、父親の均さん(88)に渡した。「22年間、お世話になりました。行ってまいります」。人生のけじめだった。父は表情ひとつ変えなかった。「ご苦労なことです」

 軍人だった父には距離を感じてきた。受け答えは敬語だ。陸軍予科士官学校時代にスパイ養成機関の陸軍中野学校に引き抜かれ、中国要人の暗殺を命じられ、待機していたという。

 国家公務員となった戦後も、「却下命令は受けていない」と、要人の病死が伝えられるまで30年間、準備を怠らなかった。伊藤さんは小学校入学前から、日曜、近くの廃虚ビルに連れて行かれた。非常階段の上からこぶし大の石をタコ糸でぶら下げて揺らすのが役目。25メートル離れて、父はエアライフルでその「糸」を撃つ。必中だった。毎週たった2発だけ。それを何年も続けたが、一度も外さなかった。「戦争っていうものはな−−」。そのころ、父が言った。「どうしても譲れないからするもんなんだよ。元に戻すためには終わったふりも、負けたふりもする」。まったく意味が理解できなかったが、不思議に心に残った。

 もうひとつ、忘れられない父の記憶。小学4年生のころ。2人でテレビを見ていて、ある出演者が「……殺してやる」と言った。「人を殺しちゃったら死刑だもん、ダメだよね?」と無邪気に聞いた。父は突然、怒り出した。「お前は死刑になるからやめるのか。なぜそのくらいでやめる? 死刑になろうがなんだろうが、やらなきゃならんことは、やれ!」。父から激しい言葉を聞いたのはこのときだけだ。

 18歳で終戦を迎えた父。その後30年、人知れず「戦争」を継続させていた。死を恐れることもなく何をやろうとしていたのか。伊藤さんは、自衛隊に入隊してからも、そして特警隊で死と隣り合わせの訓練をしながらも、ずっと考え続けた。

 ◇「救出せよ」命令の重み

 内示は突然だった。07年春、伊藤さんは上官から言われた。「艦艇部隊に戻ってはどうか」。準備から8年。やっと世界と肩を並べる態勢が整ったときに。自衛隊では部下とのなれ合いを排するために、幹部の異動は頻繁に行われる。だが、特警隊はほかの部隊とは違うと信じていた。42歳。家族がいるのに収入はなくなる。悩んだ末、退職した。「能登沖」の悔恨があった。他国と人脈があり、特殊作戦を熟知している自分は、今後も部隊に必要なのだ、と思った。射撃と潜水のスキルを保持するために、退職2日後、フィリピンのミンダナオ島に飛んだ。

(写真キャプション)父、均さん(右)もまた、旧軍特殊戦を生きた。伊藤さんは最近、実家によく行くようになった=東京都内で、滝野撮影

 伊藤さんと初めて会ったのは退職したばかりのころだ。陸自有志による訓練を見学していた私は「特警隊の元幹部」と紹介された。一時帰国中だった。私が自衛隊の幹部を養成する防衛大学校卒だったからなのか、その後、時に現役隊員も一緒に何度も会った。

 だが、根本から価値観が違うとも感じた。三十数年前、防大時代の射撃訓練を思い出す。<人の形>をした的の前で、小銃を構える私は、立ちすくんだ。私には人は撃てない、相手が「敵」であっても。それは訓練で克服すべき「弱さ」なのか。伊藤さんは特警隊をつくる際、「自分の命を犠牲にすることに何の悲壮感もない人生観を持った者を集めた」と言った。彼らは何のために戦うのか。

 伊藤さんはミンダナオ島のダイビングショップで働きながら、水中格闘にのめり込んだ。22歳の現地女性と偶然出会った。かりにマリアと呼ぶ。ショップが持つ支店の責任者をしていた。小柄で笑顔は愛くるしいのに、元特警隊員をはるかに上回る格闘技術を持っていた。マリアは自分を小ばかにした警官を海に誘い出し、溺れさせた。130キロ超の巨漢が「参った」とタップしても技を外さない。外せば殺されるかのように。伊藤さんが飛び込み、引きはがすしかなかった。

 貧民街、異臭の中で生きるマリアは、戦いしか知らない。負ければ殺される。伊藤さんは自分なりに厳しく思えた8年間を振り返った。切迫感がなかった。「的と戯れるだけ」の射撃訓練で、戦闘というものを理解したつもりになっていた。戦闘の本質は<生きるか死ぬか>である。

 ふとマリアが漏らした言葉に胸を突かれた。「私の土地は3度、征服された。みんな命がけで戦った。やられたとき、村の伝統とか風習は、隠れて守り続けた。あきらめない。何代かかっても、取り戻す。土地に生きる人にとって大切なものだから。1度だけ負けたあなたの国には、祖先が本気で残してくれたおきてはないの?」

 米国の占領から始まった日本の戦後史について、マリアは理解していた。そのうえで「祖先が残したおきて」を「何代かけても取り戻すのが当たり前」と言ったのだ。反論できなかった。そのとき伊藤さんが思い出したのは、幼いころ聞いた父の言葉だった。日本を元に戻すため「終わったふりも、負けたふりもする」と言った。だから終戦と言われても、実行の命令が実際に下るのを、30年待ち続けた。10歳のころに聞いた「やらなきゃならんことは、やれ!」の怒声は、どんな妨害があっても貫き通せ、という信念の話だった。

 帰ろう、と思った。日本に帰って後輩たちに、南の島で体得した「戦うことの本質」を伝えよう。12年に帰国。警備会社に籍を置いて後進の指導に当たる。うわさを聞きつけ、陸海空自衛官だけでなく警察官や海上保安官も集まってきた。

 イスラム過激派組織による日本人人質事件を受けて、安倍晋三首相は自衛隊に「海外における邦人救出」任務を与えることに前向きだという。法整備が進めば、出動命令を受けるのは、特戦群か特警隊だ。だが、<救出せよ>という命令は、隊員に対して「何人犠牲になっても、やれ」と命じることである。その重みの割に、政治家の言葉は軽いと感じる。

 昨春、私は毎日新聞朝刊に「出動せず」という連載を書いた。そこに多く登場したのは、戦後政治の中で苦悩する将官たちだった。私はさらに、最前線の隊員たちの心情を知りたかった。命令を受け、「敵」と直接向き合って命の危機にさらされる者たちのことを。小銃を構え、<人の形の的>の前で立ちすくみ、そのことの意味をずっと考え続けてきた者として。<命がけ>という言葉は、いまも理解できないでいる。伊藤さんは、それでいいという。「国のあり方の問題だと思うんです。守るべき価値のために、命を投げ出す人がいるということが大事です」

 伊藤さんの話は聞いていて心地よい。だが、私は反発も感じる。大勢が<命がけ>になる社会は怖い。国のことを思え、と押しつけられるのは息苦しい。

 東京五輪の年に生まれた伊藤さんは昨年、50歳になった。退職した身で、最前線に立つことはない。だから、後輩たちに技術や情報を伝えることが使命だと思っている。実家の父とも最近、話すようになった。

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 ◆今回のストーリーの取材は

 ◇滝野隆浩(たきの・たかひろ)(社会部編集委員

 1983年入社、甲府支局、社会部、「サンデー毎日」編集部、夕刊編集部、前橋支局長などを経て現職。防衛問題を中心に取材。昨春、本紙朝刊で連載「出動せず」を執筆した。著書に「自衛隊指揮官」などがある。写真は武市公孝が担当した。

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    −−「ストーリー:自衛隊初の特殊部隊(その2止) 「特殊部隊」に生きる」、『毎日新聞』2015年02月08日(日)付。

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