日記:何から超越しなければならないかって言えば、結局は「この世のものにすぎない」ことを「絶対化」してはならないというシンプルな話

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先日(1月20日)、帰宅したらNHKのファミリーヒストリーで女優の大竹しのぶさんの回が放映されていたのをたまたま見まして、その感慨を記録として残しておきます。

しのぶさんの祖母八重さんは、幸徳秋水内村鑑三との親交や、祖父が吉川一水であったことにびっくりした。吉川は内村鑑三に始まる無教会キリスト者。無教会諸派の研究もきちんとしないとねと襟を正した次第です。

さて……。私の御師内村鑑三研究だけど、私自身はカトリシズムに憧憬するし、ユニテリニアニズムとの出会いはチャーチよりもアソシエーションを重視するという構えなので、内村鑑三を受容するには時間がかかり、反発もあってか、その受容に紆余曲折がある。

しかしながら、20年経て解るのは、内村鑑三ばっかり読んでいる今の自分は無教会主義だったということ。

内村とは本質的に異なるけど社会改良の実践としてアナーキズムにも憧憬を覚える。内村鑑三にしても幸徳秋水にしても二人は「超越」という意味では交差する。

何から超越しなければならないかって言えば、結局は「この世のものにすぎない」ことを「絶対化」してはならないというシンプルな話。チャーチもそうだし、ネーションやらステートも同じく。真理に憧憬するのか。将又、都合の良い「差し当たり」の利益に囚われてしまうのか。知性と霊性が問われている。

戦前・戦中において、無教会主義キリスト者として吉川一水は、たえず憲兵隊の監視下にあったというが、何するものぞと意気軒昂であったという。監視だけではなく、治安維持法不敬罪で逮捕・獄死されたそーかがっかい初代会長を仰ぐ下駄の糞まみれのあほんだらの現在の体たらくをみるにつけ、なにやってんだかと思うし、無教会主義であってよかったと思ったりですよ。


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