日記:内村鑑三の見たアイヌ

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 千歳村は、当時、アイヌ民族中心の村であった。千歳川は、石狩川の支流ではもっとも鮭がたくさん捕獲できたという、もともとアイヌ民族の「豊かな川」であった。
 千歳川アイヌ民族の鮭漁について、アイヌ民族近代史研究者の山田伸一さんが、「千歳川のサケ漁とアイヌ民族」という研究論文で、興味深い事実を調べている。
 アイヌ民族は、千歳川のサケ漁から、資源保護と文明化を名目にして、排除されてゆく。テシ網(止め川)やマレク(銛)を使った未開なサケ漁では、野蛮から脱することができないという官側の論法であった。サケが禁漁にされてから、開拓使に就職していた札幌農学校第二期生・内村鑑三が、一八八二年に、この官営孵化場を視察にゆく。そして内村は、千歳川アイヌ民族が九万尾ものサケを、コタンぐるみで密漁していることを目撃する。内村は、「視察・復命書」で、アイヌの大規模なサケ漁もアイヌ民族にはやむにやまれぬものであり、伝統的なテシ網漁は始原を枯渇させない成熟した漁法だと述べて、アイヌ民族と和人の共同漁業を認めるように上申した。
 内村は、「飢餓の民」となっているアイヌ民族は、餓死か密漁かの道しかないと訴えた。しかし札幌県は、内村の上申を認めず、アイヌ民族のサケ漁をいっさい認めなかった。アイヌ民族の餓死を問題としなかった。こうして内村鑑三は、職を辞した。後の非戦論を唱え、足尾鉱毒事件で当局を批判した。
    −−井上勝生『明治日本の植民地支配 北海道から朝鮮へ』岩波現代全書、2013年、197−198頁。

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