文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である
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純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない。心に多くの辛い実験を経て、すべての乞食根性を去って、多く祈って、多く戦って、しかる後に神より与えられるものである。これを天才の出産物と見做すのは大なる誤謬である。天才は名文を作る、しかも人の霊魂を活かすの思想を出さない。かかる思想は血の涙の凝結体(かたまり)である、心臓の肉の断片である。ゆえに刀をもってこれを断てばその中より生血(いきち)の流れ出るものである。ゆえにいまだ血をもって争ったことのない者のとうてい判分することのできるものではない。文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である。これを軽く見る者は生命そのものを軽蔑する者である。
−−鈴木俊郎編『内村鑑三所感集』岩波文庫、1973年、83頁。
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先日、尊敬する大先輩の文筆家の方が、文章を創るということについてその有様を「何度も何度も組み立てを試行錯誤し、鉋をかける」と呟いておられたのですが、深く同意すると同時に、「言葉」そのものへもう一度真摯に向き合わないといけないなと襟をただした次第です。
何かできあがったような陳腐な言葉や脊髄反射の罵声……ばかりで、言葉のハイパーインフレ状態なのが現状ですよね。
言葉に対する不信が一番怖ろしいんです。言葉に対する不信は結局のところ人間不信を不可避に招来してしまいますから。この辺はプラトンPlato,424/423 BC−348/347 BCの『パイドン』にて、言論嫌いが(ミソロゴス)が人間嫌い(ミサントローポス)に通じていくことを、ソクラテス(Socrates,c. 469 BC−399 BC)諄々と若者に諭すシーンで語られている通りです。
過度の徳論を説こうなどとは毛頭思いませんが、内村鑑三(1861−1930)が「文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である」と指摘することだけはどこかで失念しないように心がけたいものですね。