覚え書:「日曜に想う トンネルを抜けたその先には 編集委員・曽我豪」、『朝日新聞』2017年12月17日(日)付。


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日曜に想う トンネルを抜けたその先には 編集委員・曽我豪
2017年12月17日
 
写真・図版
「ヒツジカゲ 羊影」 絵・皆川明

 1989年1月8日午前0時。平成になった瞬間、関門海峡の下を通る列車内にいた。正確には通路を走っていた。

 まだ20代で、北九州市・小倉の社会部記者だった。平成改元を伝える歴史的な朝刊作成作業の終盤に突然、デスクが変なことを思いついた。「トンネルを抜けると、平成であった」――。そんな書き出しで記事を1本書けというのだ。

 折良くその時間帯、北九州市から本州側の下関へと関門トンネルを抜けるスキー列車がある。だが駅に赴くと、閑散としたホームでJRの職員は言った。「陛下(昭和天皇)のご病気で自粛のキャンセルが相次ぎ、ガラガラですよ」

 携帯電話が広まる前のことだ。トンネルを抜け下関に着くまでの10分少々で取材を終えて降りないと締め切りに間に合わない。ひと気のない車内を走った。

 ぽつねんと座る若い女性たちに行き当たった。長崎県から来た保育士の4人組だった。残りは数分、昭和と平成への思いをやっとひと言だけ聞けた。「昭和」で彼女たちがまず思い起こしたのは、小学校の社会学習で行った長崎市の原爆資料センターだった。「昭和の和の字と平成の平の字を足すと、平和。自分たちの子供が平和な時代を送ってほしい」

     *

 その年の春、政治部に移った。今から思えば、平成元年ほど、時代の画期が幾つも重なった年も珍しいだろう。

 消費税が導入された。バブル経済は頂点を極めた。ベルリンの壁は壊れ、東西冷戦構造が崩壊し始めた。リクルート事件のあと、自民党は「山が動いた」参院選で惨敗し、衆参は大きくねじれた。

 戦後の昭和は、米ソ二大国の対立を背景にした自社両党の55年体制が長く続いた。ただ実際には、経済成長のパイを巧みに分配した自民党の長期単独政権の時代だった。その秩序全体の崩壊を濃厚に漂わせて平成の政治は幕を開けた。

 それからすぐ出口は見えたように思えた。小選挙区制を柱とする衆院選挙制度改革が成った。政権交代可能な二大政党制が根付くはずだった。だが平成もあと1年余りとなった今、現実は皮肉だ。

 大同より小異にこだわって多弱に陥る野党はもちろん、一強と称される自民党とて現実には、連立与党・公明党選挙協力なしには独り立ち出来ない。

 何より、保守とリベラル、あるいは政権への姿勢で敵味方に両極分解する政治空間が目の前に広がる。昭和の憲法を改正しようとして、最適解に辿(たど)り着く道は一向に見えない。世界もまた、宗教対立やテロに加え、何度目かにしてかつてなく深刻な北朝鮮の危機を抱えたままだ。

 ならば平成とは、昭和と次の時代のはざまにあって、ただ停滞と挫折を続けた時代だったか。それだけではあるまい。

     *

 幾度も大きな災害に見舞われた時代だった。その都度、天皇陛下祈り、ひざをついて被災者を見舞われ、国民の心をひとつにした。東日本大震災の際、陛下のお言葉は「これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています」であり、選抜高校野球の選手宣誓は「生かされている命に感謝し全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」だった。

 災害の度、足らざることは何か、厳しい議論が起きた。政府や自衛隊の初動が遅れた阪神・淡路大震災を悔やむ気持ちが根底にあった。少しずつでも、平時から中央と地方の行政が救援と復旧で協力態勢を組む準備が進むようになった。若い首長や国会議員らには、ボランティアなど災害での体験が政治を志す契機になった人が少なくない。

 金融危機もあった。原発の危機も体験した。少子化の危機も迫る。我々の平成とは、危機の後始末と次の危機への備えで懸命の試行錯誤を重ねた時代だった。

 歴代の自民党の首相がPKO(国連平和維持活動)協力法から周辺事態法、有事法制、安保法制へと自衛隊の活動範囲を飛躍的に拡大させた時代でもあった。だがそれが本当に日本の危機を救うものか、歴史の審判はこれからだ。平成は平和だったとあの彼女たちが思えるかどうかも、まだもう少しの間、わからない。
    −−「日曜に想う トンネルを抜けたその先には 編集委員・曽我豪」、『朝日新聞』2017年12月17日(日)付。

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(日曜に想う)トンネルを抜けたその先には 編集委員・曽我豪:朝日新聞デジタル