病院日記(2) アガンベンの「剥き出しの生」とレヴィナスの「倫理」より




twのまとめですが(汗、先日、入浴介助の「見学」をしたのですが、その印象録を少し残しておきます。介護や医療の現場の人からすれば、「おまえ、どこまでナイーブなんや」とかいわれそうですが、まさに「驚きの神経内科」つうか……なので。

キーワードは、アガンベンの「剥き出しの生」とレヴィナスの「倫理」。入浴介助ですが、要するに一人でシャワーを浴びることができない患者さんを風呂場へ運び、躰を洗ってあげる作業です(看護士の指導のもとで)。必然的に高齢者が多いのですが、配属部門ゆえ、躰の動かせない方が中心になります。

この手の世界をしらないので、まさか女性のお世話をするとはおもっても見なかったのがショック。おまえ、「キーワードは」という表現もどうしようもないのですが、「どこまでナイーブなんや」とか言われると反論の余地はできないのですが、ですが、カルチャーショックではあります。

しかし、そんな羞恥をお互いにかまっていられないのも事実であり、おばあちゃんもおじいちゃんも、……今回は私は見学なので、まさに補助の補助……、看護士さんや看護助手さんんの手によってさっぱりすると笑顔になっていく。いろいろな想念が交差する且つそれが仕事なんだなと感じました。

アガンベン古代ローマの特殊な囚人(ホモ・サケル、社会的・文化的特性の一切が奪われた彼らを殺しても誰も罪にならない)という「剥き出しの生」に注目し、「主権権力の外に位置する者」を歴史的に位置づけた。フーコーの系譜といってよい。しかし、これは本の世界の話ではないなあ、と実感。

自分で躰を自由に動かすことができない人間が「剥き出しの生」の囚人で、それを介助する人間がその「看守」ということではないですよ。両者が必然に求め合っている瞬間ですが、こうした「剥き出しの生」っていうのは、「ああ、それは生=権力ですよね」って教室で語るのとは違う、生々しさを感じました

従属的眼差しを生−権力は撃ちますが、字義通りの従属でなくとも、私たちは彼・彼女のように、(認識・不認識に関わらず)「ゆだねるほかない」局面を、どこかで経験する可能性というのはあるんだなーと。それがまさに「なまなましい」んです。僕たちは多分そのことを意識的に遠ざけていたなあ、と。

「囚われ人」として権力の操作対象となることにも気がつきにくい。しかし、生活者としてもっと落とし込まれている次元で、私たちは気づくことを避けていたなあ、というのが実に教学でした。確かに、医療/介護で「世話になる」ということは「言葉」としては理解している。しかし、実際に見ると……ね。

ちかしい年齢の方の入浴介助も見学した。さっぱりして浴室を出られていった。それから、今度は、配膳。そのひとのところに、昼食を運んだけど、なんか、いろいろと意識している自分自身が、糞野郎だなあと思った。何、その「意識」ってみたいな。人間を人間として扱うというのは、こういう次元にもある

幾重にもめぐらされた「対象知」の眼差しは、僕自身も自戒を込めてだけど、やっぱり人間を人間として扱わない操作的な立場に必然する。なんかそういうのを気づかせてもらった機がします(……っていう言及自体がもうその眼差しなんだけど、ゴルァとかはなしで)。

それからもう1つは、加齢や老衰は必然的に、私自身の裸体の操作を他者に委ねることになります。だから、それは、だれか別の人の話じゃなくて、私自身の遠い未来の話として「自覚」というか「覚悟」はしておいた方がいいと思った。じゃあ、他人じゃなくて家族ならいいの?って言われれば、同じでしょ

ネタじゃなくてね、性器もいっぱいみましたよ。知り合いの介護施設経営者が言ってたけど、排泄含めてその手の極めて「プライベート」な事柄が、全き他者に「委ねられる」ということは、自身の自尊の毀損にんもなるんですよ(→例えば、弱っていく)。ほんと難しい

( まあ、「ちんこ」とか表現しましたけど、最初の生-権力に戻れば、ほんと、そういうものごとに囚われていること自体、「性」を管理する権力の眼差しに抵抗していたつもりで、初歩的な羞恥を感じてしまったことは遺憾ではありますん。 )

剥き出しの生になってしまうと、月並みですが、権力も地位も関係ないですね。人間は、ほんとに、何も、もっていくことはできないと思った。※で、念のためですが、「おう、だから、裸と裸のつき合いが大事なんだよ」とか言われると、それはそれで無自覚なマチズム乙とは思ってしまう。

で、全き他者の件ですが、レヴィナスは、倫理が要請されるのは、まったく関係のない他人同士が交差する瞬間と端的に指摘しますが、入浴介助というのは、まさにその局面だったと思う。どう異なる人間は、躰と心で向き合うのかという瞬間だった。洗われる側は、そりゃ厭でしょ。こっちも厭でしょ、正味。

しかし、そういう嫌好を超えて、向き合わざるを得ないところに、人間の在り方というものが必然的に浮かび上がるというか、道徳的な「べし」よりも原初的に「関わる」“流儀”が要請されるなあとは思った。月並みですが、介護医療関係者がレヴィナスを心読するというけど、なんか一端を感じた。

レヴィナスは、私たちが自明であるということが実は自明ではない特異な現象であるとして、逆説的に、他者の存在の「異邦人性」を強調しますよね。異邦人とはテケトーにしてもええというのが通常の認識だけど、案外、僕たちは剥き出しの人間に向かうとそれを真摯に扱うもんなんですよね。不思議ですが。

「〈他者〉は私にふり向き、私を問いただし、無限なものであるというその本質によって、私に責務を負わせる」。レヴィナス(熊野訳)『全体性と無限』。これは字義通りの隷属とかそういうのではなくてね、って思いました。だから仕事でそれをやる、しかも「命」を扱うひとは、悩みの連続だ。 v

看護助手のバイトの後は、総合スーパーでの夜勤ですが、「お客様は神様」っていうけど、結局は狸と狐の化かし合い(って言い切るとあれですが)。しかし、なんというか命を預かる現場は、どう向き合っていくのか試されているなと感じました。まあ、同時に、患者さんからのパワハラもあったりしてね(涙

( まあ、ほんとうは、医療・介護・福祉の現場だけでなくて、このへんにもっとも敏感にならなければならないのは、宗教者たちなんだけど、それはとりあえず今回は横に置いておきます )

……というか、そういう経験をtwとはいえ活字化してしまう、そして、全く知らない人のちんぽやおっぱいが洗われていく光景を前に、アガンベンがどうのとか、レヴィナスがどうのとか、考える自分もタイガイだとは思いますが、ちょっとこのへんは、仕事する中で、「業務」だけでない側面で深めたいす。

そんなことをまあ、感じましたが、アリストテレスは……おい、またか!って話ですが……ほんと、考え、自分の認識を改める瞬間つうのは、考えるに値しないよと嘯く、私たちの日常生活に詰まって居るなあ、とは思いました。









ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生
ジョルジョ アガンベン
以文社
売り上げランキング: 346,250

[文化評論][国民国家][日本思想史[政治思想史][カルチュアルスタディーズ][書籍・雑誌]覚え書:「書評:モダン・ライフと戦争―スクリーンのなかの女性たち [著]宜野座菜央見 [評者]水無田気流」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。




        • -

モダン・ライフと戦争―スクリーンのなかの女性たち [著]宜野座菜央見
[評者]水無田気流(詩人・社会学者)  [掲載]2013年04月07日   [ジャンル]歴史 アート・ファッション・芸能 


■社会の矛盾とスターの身体

 「女性の美」を読み解くことは、難しい。とりわけ政治や経済と結託したとき、その難易度は跳ね上がるようだ。本書は、1930年代前後の日本映画を、「女優」に着目して論じている。表象される「望ましい女性像」を通し、美と資本主義の関係性を、さらには戦争と平和の共犯関係を丹念に書き出した秀作である。
 戦間期、後発近代化国・日本は所与の矛盾に突き当たった。産業合理化や民主化の進展に伴う軋轢(あつれき)や、文化的には西洋化とその反作用としての国粋主義も見られた。だがそれらすべてを、大衆の旺盛な消費欲望が飲み込んでいく。日本の「モダン・ライフ」はこのように鵺(ぬえ)のごとき顔をもち、人々を魅了した。この時期、日本映画は大衆文化の王座にあり、同時代の資本主義を肯定し続けた。それは、戦前から戦争初期の「豊かなモダン・ライフ」礼賛基調も、その後の諦念(ていねん)基調も受容し、大衆の「望ましさ」に応えた。
 20年代、栗島すみ子は大衆演劇的な女形女性像を楚々(そそ)とした佇(たたず)まいで上書きした。30年代には、田中絹代ナショナリズムの高揚を背景に、オリンピック出場を目指す少女を演じた。原節子は男顔負けに働き恋に破れるワーキング・ウーマンを演じた。いずれも、キーワードは都会の「モダン・ガール」だった。
 戦時の文化基調は、一貫して消費抑制基調だったわけではない。むしろ人々の関心は、戦争初期、軍需景気で豊かなモダンライフ享受に向かったのだ。その平和ムードは、「戦死者・障害者を増やし続ける戦争の膨大なコストに対する日本人の批判意識を麻痺(まひ)させた」と筆者は指摘する。だが40年代に入り、戦況悪化や経済的逼迫(ひっぱく)から一気にモダン・ガールは批判の対象とされ、今度は高峰秀子らが農村のけなげな少女を好演する。時代ごとに噴出する社会の矛盾を包摂するスター女優の身体。それらが踊る銀幕の、眩(まばゆ)い闇が見えるだろうか。
    ◇
 吉川弘文館・1785円/ぎのざ・なおみ 映画会社の東北新社を経て、明治大学大阪芸術大学兼任講師。
    −−「書評:モダン・ライフと戦争―スクリーンのなかの女性たち [著]宜野座菜央見 [評者]水無田気流」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

        • -



社会の矛盾とスターの身体|好書好日








Resize0840


覚え書:「書評:漁業と震災 [著]濱田武士 [評者]萱野稔人」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。



        • -

漁業と震災 [著]濱田武
[評者]萱野稔人(津田塾大学准教授・哲学)  [掲載]2013年04月07日   [ジャンル]社会 


■「上から目線」の改革論を批判

 もしかしたら漁業ほど、東日本大震災後のさまざまな復興論にふりまわされた産業はないかもしれない。たしかに日本の漁業は、大震災によって壊滅的な被害を受けるまえから衰退していた。何よりも担い手の高齢化がとまらない。なかなか漁業だけでは食えず、後継者が育たないからだ。漁業組合も停滞し、いまや補助金なしではなりたたない。水産資源の減少も深刻だ。こうした現状から、漁業は高齢化社会の象徴であり、大震災を契機に再生すべき典型的な産業とされたのである。
 そうした復興論のなかには、たとえば漁獲高をより厳しく制限することで漁業の構造転換を図ろうという提案もある。漁獲高を厳しく制限すれば、漁業者は市場で高値のつく大きな魚を選別して獲(と)るようになり、また乱獲も防げるため水産資源も保全されるからだ。私もかつて本紙で同様の提言をしたことがある。
 しかし筆者はこうした復興論を、現場を無視した「上から目線」の改革論にすぎないと批判する。筆者は言う。日本の漁業はこれまでも漁業者間の利害衝突を繰り返しながら漁獲制限のルールを作り上げてきたし、そうした内発性を無視して外から漁獲枠を強制しても実効性をもちえない。大型魚の乱獲も始まるだろう。そもそも水産資源の減少の原因は必ずしも漁獲の行き過ぎにあるとはいえない。
 筆者の批判は決して漁業の問題だけにとどまらない射程をもつ。事実、今の日本には現状分析をなおざりにし、複雑に絡み合った原因を単純化し、一挙に事態を改善してくれる魔法の解決策をもとめる改革論があふれているからだ。そうした改革論は事態を悪化させることはあれ改善することはない。問題をその複雑さのまま認識する力、そしてその複雑さを解きほぐしながら粘り強く解決策を模索していく思考力。漁業の問題をつうじて本書はそれを私たちに要求している。
    ◇
 みすず書房・3150円/はまだ・たけし 69年生まれ。東京海洋大准教授(漁業経済学)。『伝統的和船の経済』
    −−「書評:漁業と震災 [著]濱田武士 [評者]萱野稔人」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

        • -




「上から目線」の改革論を批判|好書好日






Resize0841


漁業と震災
漁業と震災
posted with amazlet at 13.04.11
濱田 武士
みすず書房
売り上げランキング: 13,109