覚え書:「排外主義の悪循環を超えて テッサ・モーリス=スズキ『日本を再発明する』」、『朝日新聞』2014年9月30日(火)付夕刊。

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排外主義の悪循環を超えて テッサ・モーリス=スズキ「日本を再発明する」
2014年9月30日

 日本や東北アジア近現代史研究で知られる、オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス=スズキ教授。今年邦訳が出た『日本を再発明する』では、個々人が国境という枠に閉じ込められずにつながり合う世界の可能性を、歴史の中に探った。今の日本と、日本を取り巻く状況をどう見ているのか。来日を機に聞いた。

 現在のような形の日本、その輪郭は、近代に「発明」されたものだ――。そう読者に語りかける『日本を再発明する』の英語版は、1998年に刊行された。邦訳が以文社から出版されたのは、16年後の今年2月のことだ。

 「古くなっているのではないかと読み直しましたが、当時よりむしろ今に合う本だと感じました」

 同書は、アイヌや沖縄を始めとする多様な存在を画一的に「中央」に組み入れる形で近代日本が形成された歴史や、それが「自然な存在」として意識されていく仕組みを分析した。国家を「再発明」することも不可能ではないはずだ、という考えが根底にある。個人とは本来、同一的な「文化集団」に収められる存在ではない、とも訴えた。

 ■3・11が境界に

 90年代の日本は「分岐点」にあると感じられたという。一方は、「開かれた日本」になって近隣国との結びつきが強まる道だ。他方は、「閉ざされた日本」へ内向し、近隣国との摩擦が増す道だった。

 「2011年の3・11までは両方の可能性があると思えた。でもその後は残念ながら、内向きでナショナリスティックな方向へ急速に傾いたように見えます」

 不況と格差の拡大が深刻化し、国際的には中国が台頭するという歴史的背景の中で、巨大な災害に見舞われた。「強い自国」を心理的な「よりどころ」にしたいという機運が高まっても不思議ではない、と見る。

 ■二分法への警戒

 内向化の時代はどのような危険を高めるのか。一つは排外主義だと言う。東北アジアでは既に「排外主義の悪循環」が目立ち始めた、とも指摘する。

 「たとえば、韓国側の立場を軽視した声が日本で噴き出すと、呼応して韓国内でも日本側を軽視した意見が強まり、それがまた日本の世論にはね返ってしまう……そんな悪循環です」

 歯止めをかけるためには、単純な二分法を使おうとする政治家たちを警戒することが必要だと語る。愛国者か、さもなくば敵国に通じる非国民か――そんな二分法だ。

 「韓国にも『親日派か愛国派か』という従来の二分法を超えようとする研究者や文化人が増えてきた。この動きと連携すべきです」

 ■愛するから批判

 自国の歴史の一部を批判することは「愛国心」と矛盾しない、とも話した。

 「国を愛するからこそ、より良い未来を作るために批判する。当たり前のことでしょう。実際、安倍晋三首相も『戦後日本の歴史の一部』を強く批判していますよね」

 1951年に英国で生まれた。豪州を拠点に、東北アジアの歴史を研究する。

 「福島でも、北朝鮮や中国の地方でも、中央政府の力が低下する中で、自らの手でコミュニティーを守る草の根の動きが見られます。横のつながりが生まれれば、そこから新しい政治の発想が見えてくるかもしれません」

 「共有されている社会問題も関係改善への手がかりです。たとえば、高い自殺率をどう下げるかという課題に日・中・韓で協力すれば、コミュニケーションの場を生み出せます」(編集委員塩倉裕
    −−「排外主義の悪循環を超えて テッサ・モーリス=スズキ『日本を再発明する』」、『朝日新聞』2014年9月30日(火)付夕刊。

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日本を再発明する: 時間、空間、ネーション
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覚え書:「今週の本棚:富山太佳夫・評 『英語化する世界、世界化する英語』=ヘンリー・ヒッチングズ著」、『毎日新聞』2014年09月28(日)付。

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今週の本棚:富山太佳夫・評 『英語化する世界、世界化する英語』=ヘンリー・ヒッチングズ著
毎日新聞 2014年09月28日 東京朝刊


 
 (みすず書房・6696円)

 ◇過去から未来へ、博識の詰まった大著

 英語の歴史にまつわるさまざまの問題を論じた大著である−−上下二段組、三六○頁(ページ)、全二八章ということなので、そう言うしかないであろう。

 とても全部を紹介できるような本ではないので、幾つかの章のタイトルを書き抜いてみることにする。「生存機械、言語の力と英語への闘い」「よい英語の多くの利点、文法の改革と十八世紀的正しい用法」「国の由来、言語、アイデンティティー、葛藤」「『君が見えるように話しなさい』、方言とアクセントについて」「どうしようもない今の時代、言葉の『現状』と向き合う」「とんでもないくそ野郎、検閲と卑猥(ひわい)さ」「『ここでは英語だけです』、問題ありのハイフン」「『英語を征服して中国を強くしよう』、英語の国際化」等々。多少なりともあきれたくなるタイトルであるけれども、各章ともきちんとしたデータやとても珍しい文献が駆使されている学術書でもある。われわれの国ではあまり眼にすることのない本だ。となると、私としても、四割強はニヤニヤしながら真面目に紹介するしかないことになる。

 まずは、英語の歴史について。「英語の起源は五世紀にイギリスに移住してきたゲルマン人の移民がもたらした言語にある。……それがブリテン島でそれまで話されていたケルト語をほとんど消滅させてしまった」。そして、「英語の標準的な書き言葉の発達は一三○○年から一八○○年の期間にわたっており、一四○○年から一六六○年の間にほとんどのことが起きている」。そして、こんな歴史的事実まで紹介されているのだ。「一三○○年、イギリスではフランス語が行政の言葉だった……一四二○年頃から政府が書く英語の標準形を人為的に開発した」とも指摘されている。

 もちろん文学作品で使われた英語の話も出てきて、「チョーサーの作品に使われた方言はロンドン英語だった」と言われている。かと思うと、その三○○年後に、「ニュートンは『プリンキピア』(一六八七)をラテン語で書いたが、『光学』(一七○四)は英語で書いた」。他にも興味深いエピソードが次から次へと紹介されて、純粋にあきれかえってしまうしかない。

 そして、一八世紀、ジョンソン博士の『英語辞典』(一七五五)の時代となる。ところが、「これより遡(さかのぼ)ること百五十年の間に英語の辞書はあった」というのだ。しかも、「一七五○年代から、文法書だけではなく、辞書、綴(つづ)りの本、言語論が洪水のようにあらわれ、また同時に習字の手引きや手紙の書き方」の本も登場していたというのである。こうした記述を読んでいるうちに、この本が政治史や社会経済史とは違う歴史の重要な本であることが分かってくる。有名な作品だけをならべた文学史だけにのめり込んでいてもどうにもならないことを、実感させられる。

 それと同時に、ディケンズが「ロンドンの普通の民衆の日常会話をとらえる器用さ」に改めて感心し直すことになる。こうした研究書を読むときには、確かにその主張をしかるべく理解するというのも礼儀作法かもしれないが、その一方で、脱線的な刺激を受けるというのも読者の特権かもしれない。この本は、そんなことまで考えるように誘ってくれる。

 その例のひとつ。「ヴィクトリア時代のレディーにとって、重要な関心事は声だった。……『ジェイン・エア』(一八四七)はヴィクトリア女王が夫のアルバート公の前で朗読した小説のひとつだ」。どの部分を朗読したのか、私には推測できる。

 この本の第九章は、「おお、わたしのアメリカ、新しく見つけた土地よ! トマス・ペインから朝食のシリアルまで」となっている。それは、英語という言語が今直面する問題に眼を向ける歴史的な契機を示唆することにもなる。今、われわれの前にあるのはイギリス英語だけでなく、アメリカ英語でもあるのだ−−いや、こんな言い方、考え方自体が単純すぎて、妥当性を欠いているかもしれない。第二五章「『英語を征服して中国を強くしよう』、英語の国際化」には、これからの時代と関係してくるはずの次のような指摘が含まれているのだ。「こんにちでは世界の補助的な言語は、人工言語ではなく英語だ。英語を第二言語として使っている人は英語を母語とする人より多い」。「アメリカ合衆国を含めて他のどの国よりも、インドでは英語を使っている人のほうが多い。……中国でも英語を学んでいる学生の数は急増している」。そうした事実を念頭に置きながら、著者は次のようにも述べる。「二十一世紀になると支配的な世界語としての英語の地位が挑戦を受けるようになる。主たる挑戦者はスペイン語と中国の北京語となりそうだ」

 勿論(もちろん)、使用者の数の多少によってすべて決着するわけではないだろう。しかし、それでは、われわれのこの国はどうするのだろうか。この本を読みながら、そんなことまで考えてしまう。(田中京子訳)
    −−「今週の本棚:富山太佳夫・評 『英語化する世界、世界化する英語』=ヘンリー・ヒッチングズ著」、『毎日新聞』2014年09月28(日)付。

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英語化する世界、世界化する英語
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覚え書:「今週の本棚:海部宣男・評 『人体の物語−解剖学から見たヒトの不思議』=ヒュー・オールダシー=ウィリアムズ著」、『毎日新聞』2014年09月28日(日)付。

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今週の本棚:海部宣男・評 『人体の物語−解剖学から見たヒトの不思議』=ヒュー・オールダシー=ウィリアムズ著
毎日新聞 2014年09月28日 東京朝刊

 
 (早川書房・2808円)

 ◇よくわからないながらも居心地いいわが家

 徹底的に「身体」にこだわった、不思議な本である。身体を離れての「魂」の影が薄れた現在、身体は確かに私たちそのものであり、「自我」の存在場所としての意味はますます重くなっている。その割に私たちが身体のことを知らないままでいるというのも事実だ。人体は、「私たちが立ち止まってじっくり眺めることが最も少ない自然の驚異」。科学、建築や博物館という広い分野で活躍するジャーナリストたる著者はそう考え、この本にとりかかった。解剖学の勉強からはじめたのである。

 というわけで、若きレンブラントの傑作「解剖学講義」の物語からこの本は始まる。当時こうした解剖は大きな呼び物で、大学には文字通りの「解剖劇場」が建てられ、多数の市民が入場料を払って詰めかけた。死体は死刑になった罪人のもので、市民は絞首刑と解剖の両方を「楽しんだ」。この絵にまつわる浩瀚(こうかん)な挿話も面白いが、実はこの一七世紀前半、ヨーロッパの医学界では、解剖学が大きな展開を見せていた。その端緒を開いて解剖学の祖と言われたのがヴェサリウスである。彼は一五四三年、二〇代の若さで才能と野心をかけて『人体の構造』全七巻を出版し、ご丁寧にも解剖用の死体をどうやって「調達」したか(むろん穏やかな方法ではない)まで、あからさまに書いた。この本をきっかけに、解剖を柱とする人体の「還元主義的研究」が爆発的に進み、体内のさまざまな小器官が発見されてゆく。ハーヴェイが血液の循環を発見し、レンブラントが傑作を描くに至る。同時代人のシェイクスピアに身体語が非常に多いのはこういう状況の影響だろうと著者はいう。かように、人体に関し絵画から文学、文化、ゴシップに至る著者のうんちくは端倪(たんげい)すべからざるもので、思わず引き込まれ大いに驚くという楽しみを味わえる。だからこの本は第一に人体にまつわる科学的文化史であり、題名の通り『人体の物語』なのである。

 無論、うんちくばかりではない。私たちがよく知っているようで知っていない、複雑きわまる人体。「本書では私たちの身体と、その各部と、それらのもつさまざまな意味合いを取り上げる」という通り、人体の全体、各部分が周到にとりあげられる。だがいわゆる一般向け科学書とは、とんでもなく趣が違うのだ。例えば「脳」の章ではfMRI(機能的磁気共鳴画像法)による採用応募者診断や心理調査といった商業利用に走る科学者たちに、読み手としては思わず眉をひそめる。「心臓」では、「心」の所在が脳に移った今も心臓が人間心理でいかに重要な位置を占めているかに気付かされる。「血」で語られるのは、聖性、犠牲、穢(けが)れ、遺伝=家系……。血は実に豊富な文化史の対象であり、血の役割がほぼわかっているはずの現代の私たちもそれと無縁ではない。

 こうして人体を考えてくれば、「身体の不死」問題へ向かうのは必然だ。機械による人体の補完、ロボット、「千年生きられる大事業」を展開する科学者たち……。特に米国では合成生物学や「身体の超越」による「新しい人類の可能性」がさまざま語られている。それらが消費者文化を無批判に取り入れているのではないかと、著者は危惧する。精神をどこか天空に「アップロード」して、肉体は生物圏に依存しないで済ます? そんな空想に対しては、「居心地のいいわが家であるものを牢獄(ろうごく)と見なす必要はない」というのが著者の基本的立場、この本の主張の一つでもあろう。(松井信彦訳)
    −−「今週の本棚:海部宣男・評 『人体の物語−解剖学から見たヒトの不思議』=ヒュー・オールダシー=ウィリアムズ著」、『毎日新聞』2014年09月28日(日)付。

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人体の物語: 解剖学から見たヒトの不思議 (ハヤカワ・ポピュラー・サイエンス)
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覚え書:「今週の本棚:持田叙子・評 『日和山−佐伯一麦自選短篇集』=佐伯一麦・著」、『毎日新聞』2014年09月28日(日)付。

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今週の本棚:持田叙子・評 『日和山佐伯一麦自選短篇集』=佐伯一麦・著
毎日新聞 2014年09月28日 東京朝刊

 
 ◆持田叙子(のぶこ)評

 (講談社文芸文庫・1620円)

 ◇古典水脈を現代につなぐ稀有な書き手

 ことばとは不思議な生きもの。光の中でのみは育たない。世界がぐしゃりと潰れたときに、めざましく霊妙に生まれたりする。

 幼い頃、通り魔のような存在に性的に深く傷つけられた。家に帰れば母が抱きしめてくれると思った。が、母は逆上し、男のくせに恥ずかしいと息子を罵(ののし)った。もう自分に家はないと思った。その瞬間、自分の中にことばが生まれたと、随筆や自伝的長篇小説『還れぬ家』で、佐伯一麦さんは書く。

 虚構か、事実か。どちらでもいい。真実だ。一麦さんは書き手として、そうした宿命を自覚的にあざやかに背負う。

 仙台出身。若い日々を東京で電気工として働き、アスベスト禍で喘息(ぜんそく)もわずらう。誰かがそれをしなければならない仕事だった。恨みや怒りを突きぬけ、世界の再生へ向けて静かに歩む。故郷で折れた心身を立て直す。

 この自選短篇集には特に、仙台帰住以降の独特の静謐(せいひつ)がおだやかに広がる。九つの小さな物語がおさめられる。いずれも著者の生活を濃密に反映する。「朝の一日」「栗(くり)の木」「凍土」「川火」「なめし」「青葉木〓(あおばずく)」「誰かがそれを」「俺」「日和山」。「日和山」は、東日本大震災の体験をつづる新しい書きおろし。

 どこから読んでもいい。私は「栗の木」が大好き。幸せな一篇だ。心あう人と寄りそって同じ屋根の下で暮らす、人間の原始の幸せがシンプルに本質的に描かれる。ご紹介しよう。

 出だしが秀逸。蔵王山のふもとの町、九月末の夜。スピーカーで<家路>が流れる。「遠き山に 日は落ちて」「心かろく 安らえば」の歌詞で知られる、あの曲だ。

 それを合図に北国の早寝の人々は家の灯を消す。奈穂がいればなあ、と主人公は想(おも)う。奈穂がいれば歌うのに。今夜はバイトでまだ帰らない。奈穂、奈穂。奈穂の穂は、穂高岳の穂。山好きの父親がつけた。父娘はよく山登りし、<家路>を歌った。

 蔵王の山。山の夕日の歌。山の名の奈穂。イメージが連鎖する。やっとこの町で二人で暮らせることになった。借りた古家はオンボロ、床が腐る。でもこれで充分。

 庭の栗の木が、染色家の奈穂を喜ばせる。毬(いが)から美しい色が採れる。栗ご飯を炊き、近所にも実を分けた。「なほちゃん」と言って、隣の小さな女の子が栗拾いに来る。

 「自分の家にうまい果実の木があるというのは、とても得したような贅沢(ぜいたく)な気分になるもんだな」

 主人公はつぶやく。幸福という見えにくいものの、具体的な形がすっきり表れる。

 この短篇集に登場する女のひとや女の子が皆、とてもいい。明るく輝く窓のよう。赤い折り紙に「はい」と返事を書く女の子。津波の光景を胸に秘め、淡々と受験するケーキ好きの中学生。草木染に打ち込む妻と、老師匠。北欧の凍(い)てつく雪の墓地を長い時間、いっしょに歩いてくれた或(あ)る未亡人。

 彼女らを通し、母性の回復もなされているのだろう。特に草木の命をよく知る妻は、主人公と東北の自然をたおやかに仲立ちする。

 著者の短篇は近来、俳句の簡潔と清明あじわいを増す。咳(せき)で眠れぬ夜。苦しむ自分。天には闇と星。健やかに眠る妻、夜鳥の鳴く声。どうしようもない無常−−。

 自然への古代人のような鋭敏で謙虚な感性は、はるか芭蕉へも続くのか。古典の水脈を現代につなぐ、稀有(けう)な書き手としての進撃も期待される。
    −−「今週の本棚:持田叙子・評 『日和山佐伯一麦自選短篇集』=佐伯一麦・著」、『毎日新聞』2014年09月28日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140928ddm015070026000c.html





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