書評:藤原聖子『教科書の中の宗教 −−この奇妙な実態』岩波新書、2011年。






「教科書が、意図的ではなく結果的に、特定の宗教的信仰を受け入れさせようとしてしまっている」、「教科書がある宗教を他の宗教より優れているとしたり、逆に宗教にある宗教に対して差別的な偏見を示している」問題について

藤原聖子『教科書の中の宗教 −−この奇妙な実態』岩波新書、2011年。

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宗教について中立的に語ることはできるか。
 ここまで本書を読んでくださった読者は、筆者が「宗教について中立的に語ること」を求めていると思っているかもしれない。たしかに、諸宗教について、一方的な優劣の判断をせず、多角的な見方を教えることの必要性を説いてきた。しかし、そのような教育は「中立的」といえるだろうか。
 問題は、「正しい宗教は一つだけだ」と自分の宗教を絶対的と信じている人たちにとっては、それは少しも中立的ではないことである。諸宗教を平等に扱うというのは、それ自体が一つの価値である。それを共有しない人にとっては、知識のレベルであろうと、さまざまな宗教に触れさせられるのは苦痛になる可能性がある。自分たちの信念に反して、別の価値を強制されると受け取られるということである。言い換えれば、「諸宗教に関する客観的な知識教育」は、現在の日本のような、世俗的社会の民主主義原理の中でのみ「中立的」なのである(付け加えれば、宗教は人間にとって害になるだけだというラディカルな無神論者たちにも、互いの宗教をリスペクトし学びあう公教育は中立的ではないと映るだろう)。
 もちろん、「あなたも私も今住んでいるのは、神権国家ではなく、世俗的な民主主義社会なのだから、従いなさい。嫌なら自分の信仰に一致する宗教系私立校か、ホームスクールを選びなさい」(ホームスクールとは子どもを学校にやらずに、家庭で親の責任で教育すること。日本では「不登校」による場合が多いが、アメリカ等では公立校の方針が家族の宗教に合わないから、というケースが増えている)というように、政教分離制なのだから当然だと理屈を言うことはできる。だが、異なる考えをもつ他者とどのように共生するかが、これからの日本・国際社会の課題であるならば、そのような態度は逆に壁を厚くするだけだろう。
 少なくとも必要なのは、公教育に関して中立であるべきだというとき、それはさまざまな立場の“真ん中の地点”という意味での「中立」ではないと認識することであろう。「正しい宗教を一つだけ学びたい」という人たちと、諸宗教を「教養として」学ぼうという人たちの中間点はどのような教育になるのか。あるいは、本当にあらゆる宗教を平等に扱おうとしたら、教科書はどうなるのか。何ページあっても足りないということになってしまうだろう。
 なにか特定の教科書や教育実践に対して、「それは中立的ではない」「偏っている」と批判することはできるし、それは必要なことでもある。しかし、中間点自体は一つの虚構である。同様に、タイと日本の公教育では仏教観が異なり、一方をもつ生徒に、悪意はなくても他方を自明のものとして教えると、それが押しつけになることは反省すべきである。だが、それは万国共通の仏教の教科書を開発すべきだということではない。重要なのは、教科書の一つ一つの記述が、どのような価値観に基づいているのかを意識することである。意識すればそこから距離をとり、自由になることも可能になる。現在の教科書の宗教記述の中途半端さは、このような意識−−価値中立ではなく価値自由と呼ばれてきたもの−−の欠如によるのである。
    −−藤原聖子『教科書の中の宗教 −−この奇妙な実態』岩波新書、2011年、220−222頁。

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「中正・客観」的であると称する「教科書」で「宗教」はどのように取り扱われているのか−−。本書は、主として高等学校の「倫理」の教科書を素材として、その内実を素描する。

結論を先に言えば「教科書が、意図的ではなく結果的に、特定の宗教的信仰を受け入れさせようとしてしまっている」問題、「教科書がある宗教を他の宗教より優れているとしたり、逆に宗教にある宗教に対して差別的な偏見を示している」問題が本書で明らかにされる。

たとえば、世界の「三大宗教」と呼ばれる仏教、キリスト教イスラーム(教科書では「イスラム教」の表記がほとんど)はどのように紹介されているのだろうか。ある教科書はブッダの思想を次のように紹介している。



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解脱と慈悲、そのまさにブッダの教えの両輪をなす二つの理想は私たちが自己を見つめ世界を見つめ、自分の生き方を構築していくに当たって極めて大切な指針となるだろう。また、いっさいの存在に価値を認め一匹の生き物、一木一草にまで及ぶべきものとする慈悲の思想は環境破壊を克服し、自然と共生していく道を求められている今日の私たちにとってさまざまな貴重な示唆を与えてくれるであろう(『倫理−−現在を未来につなげる』。)
    −−藤原、前掲書、4−5頁。

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この「記述」は、明らかに、単に知識を伝達しているのではなく、「ブッダの教えはあなたにとって大切な指針になる」と価値判断を下し、読者である生徒にそれを受け入れるように促している。筆者は「宗教知識教育でないどころか、宗教的情操教育をも飛び越えて、仏教の宗派教育に踏み込んではないだろうか」と指摘する。

では、キリスト教イスラームの場合は、どうか。キリスト教にもイスラームにもここまでの価値判断を下し、生徒にそれを受け入れるように促す記述はほとんど存在しない。上に引用したのは一冊の教科書だが、本書の比較検討を読むと、こうした傾向はすべての日本の教科書に見られる。

キリスト教と仏教を対比する教科書の記述はさらに踏み込んでいる。筆者の解説部分を紹介しよう。



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 キリスト教では、理屈を超えたことを信じること、祈ることが中心になるのに対し、仏教では知が中心だと対比している。この教科書では、このコラムに先立ち、仏教の節の導入部分でも、仏教は唯一神教に比べ、「瞑想によって悟りを得ることを重視する、その意味で哲学的性格の強い宗教である」と述べている。仏教=合理的、キリスト教=非合理的というのは、西洋=合理的、東洋=非合理的というオリエンタリズムをひっくり返した逆オリエンタリズムである。明治以降、日本の仏教系知識人が、東洋=非合理(非理性的・神秘的)と決めつける西洋人のまなざしに反発することにより作り上げていった図式だが、ステレオタイプの裏返しはステレオタイプの域を超えることはない。
    −−藤原、61頁。

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日本の教科書は、ユダヤ教ヒンズー教などを民族宗教と位置づけ、キリスト教、仏教、イスラーム世界宗教と定義する。筆者はこれも間違いだと指摘する。宗教学のイロハを学べば「当たり前」だと思われる事柄だが、中立・客観をうたう教科書が宗教を序列化してしまうことには驚きを禁じ得ない。

例えば、民族宗教世界宗教という「カテゴリー」そのものが、19世紀ヨーロッパのキリスト教中心主義が強かった時代の学問で広まったものであり、現在の宗教学ではその恣意性・独善性に由来する反省からほとんど使われることがない概念である。ユダヤ教キリスト教の対比でも、ユダヤ教を乗り越えた「キリスト教」と百年前の記述が21世紀の教科書で臆面もなく使用されているのである。

この乗り越えた「意識」が全編を覆うから、前の間違いを修正した進んだ宗教が優れた宗教と「序列化」されていく。筆者はこれを「勝利主義史観」と表現する。勝利主義史観は、仏教の内部にも潜在するから、当然、小乗仏教「より」大乗仏教が「すぐれたもの」となる。これも現在の仏教学の業績を確認すれば「戯れ言」に過ぎない点が明らかなことはいうまでもない。

さてイスラームはどのように紹介されるのだろうか。
筆者の小見出しは「『他者』ですらないイスラム」、これが全てを物語っている。


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イスラムについては、…倫理教科書ではそもそもキリスト教・仏教に比べて記述分量が圧倒的に少ない。これについては、教科書の総ページ数は限られているのだから、日本にかかわりの少ない宗教ほどページ数が減るのはやむをえないという意見もあるだろう。だが、扱いの違いは分量だけではない。キリスト教と仏教を対決させたがる教科書が多いと述べたが、イスラムはその土俵にすらのせてもらえないのである。
    −−藤原、前掲書、92頁。

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ほとんどの教材は、イスラームを礼拝や巡礼といった一般信者の宗教的行為の側面から紹介している(逆にいえば、キリスト教・仏教の説明では、宗教生活への言及が殆ど無い)。もちろん、これはイスラームという宗教の特性にもよるが、一見すると「イスラムだけ哲学的な要素がなく、体を動かしているだけのようにみえてしまう」のだ。
※ジハードという多義的な言葉はいまだに「聖戦」と訳されるままだ。

神道に関しては、日本の日常的な行事や習慣については教えられているのに、その背景となる神道の考え方には触れられていない。これは神道が宗教ではなく、日本の古来からの考え方である、という認識に由来するのであろう。

かいつまんで、宗教の叙述における先入見、宗教差別や偏見を促すような記述を確認したが、なぜこういった問題が今まで放置されてきたままなのであろうか。

いくつか原因が想定されるが、まず大きな原因として考えられるのは「教科書執筆者の参考にしてきた資料が、ひと昔前の護教的な神学書なのではないか」。

宗教研究には、信仰の立場から研究する場合と、信仰とは切り離して研究する立場がある。もちろん、完全な客観性など存在しないことははなから承知だとしても、公立校で用いる教科書は、後者の研究を参考にすべきだろう。しかし後者は細分化された研究が多く、イエスブッダの概論的専門家でない場合が多い。その関係から「諸宗教の基礎的部分の研究は、信仰の立場からのものが多い」から、「キリスト教でいうなら、聖書はどういう書であるか、イエスは何者であったからを研究する人は、自身がキリスト教を信仰している人であることが多い」から、それを参考にすることになってしまう。

しかしそれはそれとしても(教科書執筆者自身がその専門家ではないから)、「今日の神学の内部で、キリスト教ユダヤ教に対する勝利主義史観に反省が起こっており、そのことは外国では公教育にもとうに反映されている」ことだ。先に言及したとおり仏教に関しても同じである。

だから海外の教科書と比べた場合でも、もっとも脱宗教的でリベラルな英国の教科書はいうにおよばず、もっとも保守的と言われるドイツの教科書におけるキリスト教の記述よりも、日本の教科書は「保守的」な記述となっているし、現行の日本史教科書のほとんどが「厩戸王聖徳太子)」の表記だが、倫理教科書は依然として「聖徳太子」のままである。

そして、筆者は端的に指摘する。



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 教科書の偏見が見逃されてきた原因をより広くとらえれば、「関心のなさ」という問題があるかもしれない。
    −−藤原、前掲書、134頁。

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この「関心のなさ」は4つある。1つは「教える教員の関心があまり高くない」こと、1つは「アカデミズムの中にいる宗教学者の問題」(専門の細分化度が高く、総体としてどう語るかに取り組んでこなかったこと)、1つは、「専門家の間には、教科書は『中学生・高校生相手だから』という油断」、そして「宗教界の無関心」である。

ここまで教科書の記述に従って見てきたが、本書は、イギリスやドイツといった欧米だけでなく、トルコやインドネシア、タイといった海外の教科書と教育実践についても紹介している。

イギリスではキリスト教が国教と定めるにもかかわらず、脱宗教教育化しているのに対し、ドイツでは公立校で宗教が必修教科であり、宗派ごと(プロテスタントカトリックイスラームなど)に分かれて行われている。トルコやタイではいずれも国教制度はないが宗教教育的宗教科の授業が必修となっている。しかし、非仏教徒、非イスラーム教徒には受講義務はない……等々興味は尽きない。

さて、最後に筆者は宗教を学ぶ目的を示している。



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 それでは、学校で宗教を教えるという選択をする場合は、今後どのように取り組んでいくとよいだろうか。ちょうど哲学・倫理学の学者たちも、高校の倫理の授業や教科書を変えようという運動を起こしている。倫理教科書における哲学教育は、哲学者の思想を知識として学ぶことが中心だが、これを自らも考える形に転換していこうというのである。哲学史的知識ももちろん必要だが、論理的に考える、あるいは「そういいきれるだろうか」と批判的に考える力が国際的にも重視されている現状を受けてのことである。
 そのことも踏まえて、議論を広げるために、従来の宗派教育、宗教的情操教育、宗教知識教育の呼称をいったん外し、それぞれの教育の「目的」に注目した表現に置き換えてみたい。宗派教育は、特定の宗教の信仰を育む教育でもあるので、宗教系私立校用として脇に置く。宗教的情操教育と宗教知識教育の目的を、新しい哲学教育と共有できる表現に置きなおせば教育、論理的、批判的思考力や対話能力といったコンピテンシーを身につけるための教育である。
    −−藤原、前掲書、187−188頁。

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哲学教育の見直しを視野に入れながら、筆者は宗教を学ぶ目的を具体的に3つ示している。すなわち、


1 人格形成のため
2 異文化理解
3 倫理的、批判的思考力や対話能力というコンピテンシーを身につける

……である。

一人の人間としての道徳的価値観を身につけると同時に、異なる人々や宗教観を理解し、そういう異なる他者とコミュニケーションを図る力である。これは現代社会では最も必要とされる事柄であろう。だとすれば、高校教育で道徳、倫理、宗教の教育が軽視されてきた事実と実状を深く反省しつつ、新しい形を提示していくほかあるまい。

刺激に満ちた報告であり、かつ非常に考えさせられる報告である。

(蛇足)
評者は高等学校では「倫理」を履修していない。大学で宗教を研究するようになってから、この国の一般における「宗教」に対する無理解・偏見・関心のなさに戸惑うことが日常茶飯事である。しかしこれを加速させたのは、学校教科書であったことには驚く。









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