知識や経験の蓄積を通して行為をすること、そしてもうひとつは、蓄積することなく、生きるという行為のなかでつねに学んでゆくこと





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……私たちが話しているのは二つの種類の学ぶことについてです。ひとつは知識や経験の蓄積を通して行為をすること、そしてもうひとつは、蓄積することなく、生きるという行為のなかでつねに学んでゆくことです。片方は技術的なことには絶対に必要なものですが、関係、人に対する態度は技術的なことではありません。それらは生きているものなので、それらについてはつねに学ばなければならないのです。もし人に対する態度について学び、その知識に基づいて行為をすれば、それは機械的になり、それゆえ関係は型にはまったものになってしまいます。
 そこからもうひとつ、きわめて重要なことがあります。蓄積と経験の学習の場合、それにそそぐ情熱は、そこから得られる利益によって決められます。しかし、利益という動機が人間関係のなかで働くとき、それは孤立や分離をもたらし人間関係を破壊します。経験と蓄積の学習が、人間の行動という領域、すなわち心理的な領域に入り込むとき、それは必然的に破壊をもたらすのです。利己心に長けることはある面では進歩をもたらしますが、ほかの面では、不幸や苦悩や混乱の温床となるのです。どんな種類のものであれ、利己心のあるところには関係が開花することはできません。関係が経験や記憶の領域内で開花することがないのはそのためです。
    −−クリシュナムルティ(松本恵一訳)「学ぶこと」、『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』めるくまーく、1992年、224−225頁。

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今日の哲学の授業では、古代ギリシア以降の流れを現代までざっくり紹介するというきわめてアクロバティックな構成になってしまいましたが……来週以降はテーマに従ってそれぞれ深化させるために……、なんとか無事完了。我ながらよくやるわなw と思いつつ、それでも少し手順が良くといいますか・悪くといいますか、時間が微妙に余ってしまいましたので、学生さんたちと「教養とは何か」について考えてみました。

基本的には阿部謹也さんの教養論と中世における大学の意義を紹介しつつ、その知識や方ではない「人間」の問題として浮上するものとの認識を共有することができたと思います。

しかし、こちらから何かを提示するまえに、私の場合、じゃあ、みなさんはどう考えるのか?お互いに話しあってみましょうというスタイルを取り、そのフィードバックのやりとりで進行するようにしておりますので、学生さんの意見を聞くと、

やはり……

「知識もその一つだけれども、知識とイコールではない何かが加える」

……という認識が多くありました。


たとえば教養を身につけるために遂行するのは「学習」ではなく「学問」という行為になると思います。知識の習得といった場合、学習で事足りますが、そうではないものが「学問」という行為になると思います。

もちろん、学問の「作業」のなかには、その営為のひとつとして「学習」は含まれますから、学習を含め、実験や観察、読書やひととのすりあわせのなかからそれをやっていくのですが、要は知識の当体となる「人間」自身をそれによってカルチベートしていくことにより、その何かが身に付くと捉えるべきでしょう。

そしてその学問の現場はどこにあるのでしょうか。たとえば大学での1コマ90分の教室もそのひとつでしょうけれども、それだけではないと思います。この生きている世界の全ての事象から、自分自身が「問い」、「学(まね)び」往復関係の中からそれを様式として「暗記」するのではなく、いきたものとして、自身を薫蒸させるものとして受容していく。そこにこそあるのではないでしょうか。

たとえば、人間関係における「枠」というのもその「何か」のひとつでしょう。葬式に白いネクタイを締めていく人間はおりませんし、奇を衒った挑戦をする必要もないでしょう。たしかに「生活儀礼」として受容することは必要でしょう。

しかし、そうしておけばまあ「大丈夫」という認識と、弔問の意を衷心より表現するひとつの方として認識して創造的に受容するのでは大きな開きがあるでしょう。

そのあたりの二重の契機というものを踏まえながら、すべてのものから学んでいく……私自身含めて、まあ、そうありたいなあとは思う次第です。






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