なぜ、ロールズはグローバルな不平等に無関心だったのか
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なぜ、ロールズはグローバルな不平等に無関心だったのか
『正義論』を読んでジョン・ロールズを知った人たちは、この節のタイトルに驚いたことだろう。結論から言うと、ロールズはまさしく、平等主義を強く支持する立場をとっている。しかし、「平等からの逸脱が正当化されるのは、その不平等がもっとも貧しい者の絶対位置(すなわち所得)を向上させるために必要であるときのみである」という、有名な「格差原理」でロールズが表明した立場は、一国家のレベルでのみ有効なのである。いかにして一国内での公平を実現するかが、ロールズの『正義論』のテーマだったのだ。もっとも、後に1999年に出版された『万民の法』では、ロールズはさらに理論を深めて、全世界統治(グローバル・ガバナンス)と世界正義(グローバル・ジャスティス)の問題に取り組んだ。そこでロールズは、グローバルな所得不平等と所得再分配について明確にも婉曲にも論じており、「格差原理」をグローバルなレベルで適用することを否定した。グローバルな不平等が世界でもっとも貧しい者の地位を改善していると主張できれば、グローバルな不平等の拡大を正当化せざるを得ないことを、「格差原理」は暗に示しているからだ。
グローバルな所得分布の妥当性を論じる前に、移民問題に対するロールズの見解に注目してみよう。すでに触れたように、移民問題の原因は、各国の平均所得水準に大きな格差が生じていることであり、そしてグローバリゼーションが進展した結果として、その格差の存在が広く知れわたり、加えて移動コストの低価格化が移民を促進することとなった(2の3および2の5参照)。しかしロールズは、移民の受け入れは政治的・宗教的迫害を逃れてきた人々に与える亡命者保護のレベルに引き下げるべきだと主張した。だが結局のところ、移民の動機は一般に経済的理由であり、そのことは多くの米国市民にも当てはまるだろう。あえて言うなら、ロールズの祖先も同様だったはずだ。それなのに、ロールズは経済的理由による移民を明確に否定している。
領土と、その領土が国民を永続的に支える能力は、国民の資産である。その能力の執行者は、政治的に組織された国民自身である……彼ら[貧しい国の国民]は自国の領土とその天然資源を適切に管理する責任を果たせなかったことを、戦争または同意を得ていない移民によって他国民の領土を侵略することで埋め合わせることはできないことを自覚すべきである。
豊かな国々が移民に対する障壁をますます高くしていることを、ロールズは完全に正当化していると思える論調だ。引用文が述べているように、各国の国民は、自国の文化と伝統および全領土の管理者とみなされている。そうであれば、各国の国民には他国民の流入を受け入れたり拒絶したりする権利があるということになる。世界の人々の生活水準を平等化するための手段となり得る移民を、ロールズは永遠に遮断したと言えるだろう。
グローバルな不平等に対するロールズの無関心ぶりは、さらに続く。ロールズによれば、不利な条件の「重荷に苦しむ社会」が「秩序ある国民」のレベルに達するために必要な場合に限り、国際援助は承認、支持されるという。「重荷に苦しむ社会」とは、歴史的原因によって所得水準が低いために、政治的行動についての法的規則を確立できず、基本的人権を尊重することができない社会である。政治的規則と基本的人権に加えて、他国民に対する平和的行動が「秩序ある国民」と定義されているための条件である。蔓延する貧困が原因で「秩序ある国民」になれない場合に限って、「重荷に苦しむ社会」を援助することは進歩的諸国民の義務となる。援助が継続されるのは、「重荷に苦しむ社会」がもはや物質的貧困に拘束されることなく、法的統治と基本的人権と実現できるようになる時点までである。つまり、この時点で援助は終了する。
「重荷に苦しむ社会」が「秩序ある社会」に変容したら、各国間の所得水準の格差はもはや何の関係もない。ロールズははっきりと述べている。「いったん……適切に機能するリベラルな政府が確立できたら……各国の平均的な富の隔たりを縮めなければならない理由は存在しない」。ようするに、所得の格差は集団的選好の結果である、とロールズは考えているのだ。「秩序ある社会」の中には、消費よりも節約を好む社会もあれば、余暇を楽しむよりも一生懸命に働くことを好む社会もあるだろう。その結果として成果も異なり、一部の社会はその他の社会よりも裕福になる、というわけだ。基本的に、これらの違いは重要ではない。なぜなら社会が到達した豊かさのレベルは、その社会の選択を反映したものだからだ。
各国間で平均所得の不平等が拡大していること(所得の分岐)については、すでに2の1および2の2で触れているが、ロールズの理論によれば、すべての国々が秩序ある状態である限りは、この所得格差を容認してよいということになる。おそらくロールズも、世界の最貧国の多くが現実に「重荷に苦しんでいる」のであり、裕福な国々は(所得の分岐が憂慮される限りにおいては)財政援助を行うべきであることには同意するだろう。しかし、ロールズは明らかに、秩序在る国々の間の所得の分岐が問題であるとは考えていなかった。インドも米国も、ともに秩序ある社会である。つまり、インドに対するいかなる援助も不要である、なぜならインドの物質的貧困はインド人の社会的選択の結果にすぎない、というわけだ。これと同じ趣旨のことを、ロールズを信奉する有力な研究者、ジョシュア・コーエンも明言している。「いったん、集団的自治の重要性を認めたならば、生活水準の収斂〔生活水準を先進国並みに引き上げること〕を望む理由は存在しない。収斂の欠如は、修正すべき欠陥ではない」
こうしたロールズの姿勢は、互いに関連した二つの前提条件に基づいている。(1)政治制度(進歩的に機能する政府、すなわち国民全員の利益を考慮する政治制度)と基本的人権の順守は極めて重要であり、(2)個人的あるいは社会的目的としての富の取得は拒絶される。(2)は明らかに経済学の常識ばかりでなく、一般の常識からもかけ離れている。
−−ブランコ・ミラノヴィッチ(村上彩訳)『不平等について 経済学と統計が語る26の物語』みすず書房、2012年、183―187頁。
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ちょと最近忙しくてナニなんですが、ロールズの正義論の限界を1つ研究ノートとして「抜き書」しておきます。
後日、『正義論』、『万民の法』あたりと対照してみようと思いますが、ロールズに限らず、アメリカの正義論は、まさに歴史に準拠せず、正義を構想しようとする試みだから、どうしても、その土俵を大切にします。それゆえでしょうか、ときどきパラドックスを必然させてしまうフシもあるのかな、という実感です。
もちろん、歴史に準拠した(=生−権力の馴致)発想の楽天さほど、どうしようもないものはないわけですけど、念のため。