「話さない」ことも、そして「いない」ということさえ表現かもしれない



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 さて、「今朝、何、話したの?」と聞くと、子どもたちは、ほぼ決まって「えぇ、今朝、何話したっけ?」と呟く。私はこれだけでも、この授業(国語授業内での演劇教室のこと……引用者註)の意味があると考えている。話し言葉の教育とは、まずもって、自分の話している言葉を意識させることから出発するはずだから。
 日常、話し言葉は、無意識に垂れ流されていく。だからその垂れ流されていくところを、どこかでせき止めて意識化させる。できることなら文字化させる。それが確実にできれば、話し言葉の教育の半ば達成されたと言ってもいい。子どもたちは、そこから、日常使っている自分たちの言葉に意識的になるはずだから。
 実際の授業では、優等生的な子が、「じゃあ、宿題の話をします」とか「運動会が近いので、運動会の話をします」と発言して、流れが決まっていく。私の役割は、それでも黙っている子に、さらに聞いていくことだ。「じゃあ、君は何話すの?」
 そうすると必ず「話さない」という子がいる。私はすかさず「じゃあ、君は話さない役にしようか?」と聞くと、意外とみんな、「えー、じゃあ、なんか言う」と言って自分の台詞を書き始める。日頃、書くということにプレッシャーを感じている子も、いったん「書かないでいい」と言われると、不思議と自分の台詞を書き始めるものなのだ。
 あるいは「話さない、寝てるから」という子どももいる。こういう子には、「おぉ、いいね、いいね。じゃあ君は寝る役にしょうか」と言う。まだ黙っている子に、「君はどうする?」と聞く。そうすると「いない」と言う子がいる。「いつも遅刻ギリギリに来るから、いない。だから友だちが何話してるかも知らない」と言う。私はもう喜んでしまって、「おぉ、いいねいいね、じゃあ、遅刻してくる生徒の役も作ろう」となる。
 さて、三時間目、冒頭、最後の練習をして、どうにかギリギリ、各班とも台本が出来上がって発表となる。発表の場では、全員が宿題の話を真面目にしている班よりも、宿題の話をしている子の横で、机に突っ伏して寝ている子もいれば、途中から「やばいやばい」と教室に入って来る子もいる班の方が、よほど演劇的には面白い。
 このとき子どもたちは、「話さない」ことも表現だということを学ぶ。「いない」ということさえ表現かもしれないと感じる。子どもたちのなかで「表現」という概念が、大きく広がっていく瞬間がある。
    −−平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012年、55−57頁。

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国民国家体制において、強い国家=強い軍隊をつくるためには、どうしても国語の統一が必要となる。

正しい言語や標準語といったものを設定し、それについての「読み・書き」できることの収得が何よりも優先させられてきたのが国語教育の歴史といってよい。

たしかに言語の「共有」という意義では、国語教育はその役割をしっかり果たしてきたが、もはやその使命は終わっている。加えて、コミュニケーション能力が国語を中心とした初等教育に要請される昨今、確かに改革は必要だけれども、需要と供給のバランスは、ホンネと建前的なダブルバインドによって、その目指すべきものとは、思っても見なかった方向に向かっていると言っても過言ではない。

そうしたなかで、大切なことは色々あるのでしょうが、やはり「表現」とは、「自分の考え」を「言葉」によって適切にパロールするもの(ないしは)ディスクールするものという狭いものに限定しないことも必要なのではあるまいか。

劇作家平田さんの魅力的な提案には驚くばかりだ。

確かに「話さない」ことも表現の一つであれば、誰かを祝福するために「言葉」を贈るのもその1つだし、絵がうまいのなら絵を贈り、歌がうまいなら歌を歌うというのもその一つであり、これは立派な表現である。

表現概念について、もっと柔軟に向き合う必要がありますね。











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