日記:トマス・アクィナスをよむ意義

1




月に一度、コロンビア大学コアカリキュラムの教材を取り上げ、雄志で勉強会をしているのですが、5月がアウグスティヌスで、今月がトマス・アクィナスキリスト教思想史における二大巨人の著作を概観して思うのは、二人とも「紋切り型」のフレーズで、究極的なことを語らないということでしょうか。

信仰世界における言語運用は、それが信/不信、救済可能性/不可能性といった究極的関心事に関わるとき、非常に貧しいやりとりになりがちです。まさに「紋切り型」のとってつけたような、どこか「僕の言葉」……ただ、これも究極的には「僕の言葉」なんてない訳ですが……とは違う「借り物」のそれとして。

アウグスティヌスの場合、マニ教の提示する安直な物語から脱却する過程において、徹底した自己内省察が遂行されますが、それは、まさに、究極的な関心事に関わることにおいて、自分で考えてみる、自分の言葉でそれを照らし直してみる、そういう「他者依存」とは異なる徹底的対峙が遂行されます。

トマスの場合も同じくです。大著『神学大全』を紐解くと一目瞭然ですが、問いに対する答えは設定されますが、それと同時に、あらゆる可能性が検討され列挙されます。究極的関心事に対する問い−答えというそれは一つかもしれません。しかし、それを背景から支える言語は多様に存在する。そのことを無視しない。

「それこそ深い信仰である」or「それこそ不信である」という言葉が投下される時の無味乾燥な、どことなく自分とは存在様態がリンクしない紋切り型のフレーズを徹底的に避ける中で、事柄を「自分自身に取り戻す」。その闘いをトマス・アクィナスは敢行していたのではないかと。そう思われます。

自身の著作全てを否定するトマス・アクィナス最後の10日間に肉薄するのが矢玉俊彦『判断と存在―トマス・アクィナス論考』(晃洋書房、1998年)。トマス自身そのテクストが固定化されることを最後まで退けた。借り物ではない、自分の頭で考えることと恩寵の交差は確かに存在する。





Resize1339



トマス・アクィナス (講談社学術文庫)
稲垣 良典
講談社
売り上げランキング: 101,755


判断と存在―トマス・アクィナス論考
矢玉 俊彦
晃洋書房
売り上げランキング: 1,666,262