覚え書:「今週の本棚:堀江敏幸・評 『黄泉の河にて』=ピーター・マシーセン著」、『毎日新聞』2014年07月06日(日)付。

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今週の本棚:堀江敏幸・評 『黄泉の河にて』=ピーター・マシーセン著
毎日新聞 2014年07月06日 東京朝刊

 (作品社・2808円)

 ◇待ち受ける悲劇の先にあるもの

 流出した重油に絡め取られて動けなくなった海鳥のような人物たちを、インクの代わりに胆汁で描く。逃げ場もなく当たり散らすべき理解者もいない者たちの世界に入り込んでじっと観察し、暴力の気配をあちこちに漂わせ、ときにそれを解き放ちながらも、彼らの存在を全否定するような真似(まね)は自分に対して許さない。

 ピーター・マシーセンは、そういう作家である。自身の内にも同種の爆弾が眠っていることをよく知っているのだ。一九五〇年から一九八八年までに書かれた短篇の自撰(じせん)集となる本書を開くと、青年作家の野心と勢いと心の棘(とげ)そのものが、後年の創作の核を作っている事実に気づかされる。ナチュラリスト、探検家、漁師などの経験を活(い)かしたノンフィクションやそれを深化させた長篇小説の書き手のなかにも御しがたいうずきがあって、表面だけの自然保護や博愛に流されないための碇(いかり)になっているのだ。

 一九二七年、ニューヨークに生まれたマシーセンは、イェール大学を出たのちパリに渡り、当地で知り合った書き手たちを生かす場として、五三年、文芸誌『パリス・レビュー』を創刊した。じつはこの資金がCIAから出ていたことが今世紀になって明らかになり、当人もエージェントであった事実を認めて、関係者に大きな衝撃を与えた。事情はどうあれ、そうした過去は若さを無傷で残しはしない。しかしこの傷のうずきは、季節と場所、気温と湿度を正確に伝える描写と言葉の律動が絡みあったとき、はじめて鮮明に感じられるたぐいのものだ。書き手はそれに刺激されて、心の中の黒い海鳥を指でつつく。移動をうながすその小さな突きの感覚を、マシーセンはつねに磨いていた。

 「十一月下旬の道路のへりで、ニューイングランドの田舎道には大きすぎる被甲動物が、退きもせず、頭を引っ込めもせず、ただじっとステーション・ワゴンを待ち受けていた」

 結婚一年目で早くも崩壊寸前の若い夫婦を描く、オコナーとカーヴァーを併せたような後味の一篇、「季節はずれ」の冒頭である。発表されたのは五三年。被甲動物とは黒い大きな亀のことで、それが「置き忘れられたようにぽつんとうずくまっている」。妻が先にそれに目を留めたものの、「車内の沈黙を破りたくなくて」夫を「肘でつつき」、指で前方を示す。

 しかるべき状況からはずれている存在に対して彼らがどう振る舞うことになるか、その予感と不安が、簡潔な言葉の中でぶつかりあっている。ふたりは亀をワゴンに積んで、黒人の管理人一家がいる田舎家に向かう。夫は亀を殺すと言い、妻はそれを認めない。沈黙は守られるどころか棘のある言葉の応酬となって悲劇と言ってもいい結末を呼び寄せる。

 ただしその手前で止める選択肢などありえないことが、読み終えると理屈ではなく身体で理解できるのだ。黒人のブリーダーのもとへ犬を買いに行く「セイディー」も、溺死体が浮かび上がるのを小さな船で待ちつづける「五日目」も、メキシコ湾に近い黒人たちの町へやってきた夫婦が大亀のように放り出される表題作も、登場人物の不安と怒りを丸ごと引き受けるしかない世界だろう。読者はその不快さを、繰り返し味わいたくなる。張りつめた言葉の間から光が差してくるのを「待ち受けて」いたくなる。

 原著者は今年四月、訳者は六月に亡くなられた。両者を結ぶ最後の、そして最新の邦訳に黄泉(よみ)の河を流した偶然の差配が、心を打つ。(東江一紀(あがりえ・かずき)訳) 
    −−「今週の本棚:堀江敏幸・評 『黄泉の河にて』=ピーター・マシーセン著」、『毎日新聞』2014年07月06日(日)付。

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