日記:追悼、木田元先生。

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哲学者の木田元さん死去 ハイデガー研究の第一人者
2014年8月17日16時26分 『朝日新聞』電子版。



http://www.asahi.com/articles/ASG8K4S5TG8KUCLV002.html


木田元さん
 20世紀ドイツの哲学者ハイデガーの研究で知られる哲学者で中央大名誉教授の木田元(きだ・げん)さんが16日午後5時33分、肺炎のため千葉県内の病院で死去した。85歳だった。通夜は19日午後6時、葬儀は20日午前10時30分から千葉県船橋市習志野台2の12の30の古谷式典北習志野斎苑で。喪主は妻美代子さん。

トピックス:木田元さん
 「闇屋になりそこねた哲学者」という著書があるように、学者としては異色の経歴の持ち主。山形県に生まれ、旧満州中国東北部)で育った。敗戦後、故郷で代用教員時代に米の闇屋で稼いだ資金を学資に農林専門学校に入学。そこでハイデガーの本と出合い、哲学を専門とすることを志し、東北大に進んだ。

 長く中央大学で教壇に立ち、西欧哲学、特にハイデガー研究では、日本の第一人者となった。99年の退職後も、若い研究者を相手に在任中から主宰していた私的なハイデガーの原書講読会を続け、カラオケと酒を愛する洒脱(しゃだつ)な人柄もあり、多くの後輩を育てた。

 また、東西の古典はもとより、詩歌から時代小説、推理小説までと、大変幅広い読書家としても知られ、哲学を離れても多くの著書がある。98年から02年まで朝日新聞書評委員を務めた。主な著作に「現象学」「ハイデガー存在と時間』の構築」「哲学と反哲学」など。

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ハイデガー研究の第一人者・木田元先生が8月16日に逝去された。85歳とのこと。ハイデガーへの導きは木田先生抜きには語れない。安らかなお眠りをお祈り申し上げます。

さて、木田先生は、敗戦後の焼け野原に立ち、悪戦苦闘する中で、「ハイデガーを読みたい」という一心で哲学に導かれたという。その文章も合わせて下に抜き書きしておきます。

ほんと、こう時代の変化が(悪い方へ)というスピードの早い時代だからこそ、徹底的に考え抜くという実践は、今こそ必要だと思います。



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戦後の放浪
 人がどんなふうにして哲学に近づいてゆくものか、その一例として私自身のばあいを語ってみようと思う。
 私は一九五〇年(昭和二十五年)に東北大学に入って哲学の勉強をはじめたのだが、私のばあい、中学・高校・大学とすんなり進学したわけではなく、敗戦後の五年間ずいぶん廻り道をしている。そして、そのばあいにどうしてもハイデガーの『存在と時間』を読まずにはすまされない気になり、それを読みたい一心で大学の哲学科に入ったのである。
 いったいどうしてそんな気になったのか。それを語るには、敗戦後の私の生活をふりかえることからはじめねばならない。年寄りの思い出と思って読んでいただきたい。
 敗戦のとき、私は十六歳、江田島海軍兵学校にいた。三歳から満州(現・中国東北部)で育ち、敗戦の四ヵ月前、兵学校に入るためにはじめて日本に渡ってきたのである。したがって、戦争に負けたから家に帰ってよろしいと言われても、帰る当てがない。近い親戚はみんな満州に集まっていたのである。当面は兵学校のクラス担任であった先生の佐賀の実家に引きとってもらったが、なにしろ日本中食糧のないとき、そこにも長居できず、一月半ほどでおいとまをした。台風で山陽本線が寸断されていたので、別府から尾道まで闇船−−漁船などを利用し、不当な料金をとって客を運ぶ客船−−で瀬戸内海を渡り、あとは無蓋貨車を乗り継いで東京に出た。何日かかったか、よく覚えていない。繊細で焼け出された人たちに混じって上野駅の地下道で一週間も野宿したろうか。そのうち、下町を焼け出された人たちに混じって池袋の西口のマーケットに居を移していた小さなテキ屋にスカウトされた。体力と腕力だけは人並み以上だったのである。主な仕事は、川崎あたりの旧陸軍の倉庫に木炭トラック−−どういうメカニズムによるのか知らないが、この頃は木炭を焚いて自動車を走らせていた−−に乗って押しかけ、隠退蔵物資摘発という名目で毛布や敷布など軍需物資を略奪することだった。時どきどこからか情報が伝わってくると、そのテの組織が大挙して押しかけ、私はそうした方面にもけっこう能力があり、親分夫婦にずいぶんかわいがられたのだが、さすがにテキ屋になる気はなく、暇を見ては必死になって身寄りを探した。
 兵学校入学のとき遠縁の海軍大佐に保証人になってもらったことは覚えていた。むろん敗戦直後にも江田島で、保証人の住所氏名の記載された入学誓約書というのを本部に探しにいったのだが、焼き捨てられた直後だった。それにあれだけの戦争のあと海軍大佐がおめおめと生き残っているとは思われなかったので、探すのは諦めていたのである。しかし、遺族の住所でも分かればなにかの手がかりになると思い、その頃、雅叙園に移っていた海軍省の残務整理部をやっと探し当てていってみると、なんのことはない、死んだと思った御当人がそこにいるではないか。向こうでも多少は気にして探してくれていたらしい。ともかく幸運であった。その指示で、山形県の新庄という父の郷里の町にゆき、父の従妹の嫁ぎ先といった程度の遠縁の家に落ち着いた。満州にいる家族がどうなっているのかは見当もつかない。二、三軒の親戚をタライ廻しにされたりして、かなりの心理的抑圧も経験したが、ともかく一年近くそこで畑仕事の手伝いなどをしながら暮らした。
 敗戦の翌年、昭和二十一年の秋に、シベリアに抑留された父を残して、母と姉二人と弟と四人の家族が引き揚げてきたのを迎えて、今度は母の郷里の鶴岡という日本海岸の町に住みついたが、むしろそれからが大変だった。なにしろ働けるのが十八歳になったばかりの私一人、一家を養わねばならない。人の世話で、まず市役所の臨時雇い、次いで十一月頃から近くの温泉町の小学校の代用教員をしたが、そんな給料で一家五人が暮らせるわけはない。週末や冬休みには闇米をかついで東京まで通った。あらかじめ人に頼んで買い集めておいた一俵分の米を、背中に三十キロ背負い、両手に十五キロずつ持って、進駐軍や警察の目をくぐって満員の夜行列車で運んだのである。二回の往復で一月の給料分ぐらい稼げたから、やめるわけにいかない。
 学校で私が担当させられたのは、当時の学制で尋常科六年を卒業し、進学しないでしまった生徒たちの入る高等科一、二年の男子のクラスであった。ロクに教科書もない複式授業をし、午後は下級生の教室で焚くストーヴの薪割りといった毎日、三、四歳下の田舎の子どもたちと遊ぶのは楽しかったが、そんな状態だから、善良な教師というわけにはいかない。ふだんは宿直を買って出て学校に泊まりこんでいたが、夜になるといやでも自分の行く末を考えてしまう。父が帰ってくる保証もないし、こんな生活がいつまで続くのかと思うと暗澹とした日々だった。
    −−木田元「暗い時代に ドストエフスキーとの出会い」、『わたしの哲学入門』講談社学術文庫、2014年、30−33頁。

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