日記:単に同情心とか感受性の鋭敏さとかに帰して片づけきれない、人間性の本然の成り立ちに根ざした深い平衡感覚(シモーヌ・ヴェイユ)

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 シモーヌ・ヴェイユの伝記については、現在では日本語で書き下ろされたものも何冊かあり(巻末文献表参照)、リースやダヴィなど外国の研究書の翻訳も出版されて、この国の人々にもだいぶ知られるようになったが、それらのどの本にも好んで引用されている彼女の少女時代のいくつかの有名なエピソードがある。たとえば、第一次大戦中、後妻のシモーヌが前線の兵士たちの苦労をしのんで、チョコレートや砂糖を食べるのを辛抱したという話とか、ソルボンヌの学生時代には中国で大ききんがあり、飢えで倒れて行く人たちの出たニュースを聞いた彼女が急に泣き出したというふうな逸話である。こういう物語の主人公となった人物は、「いっぷうかわっている」ということで、しょせんうつり気な一時の好奇心の対象にされるにすぎないのだろうが、シモーヌ・ヴェイユの場合、こういった些事のひとつひとつが本質的な人間のありかたと関連をもっているゆえにこそ見のがされてはならないのだろうし、また一部の人々に抑えようのない苛立たしさを与える原因になっているのだといえよう。ダヴィは、彼女の行為が一般から「狂気の沙汰」とみられるのは、彼女が「節度」や「妥協」といった基準をもってはまったく理解できない次元にいたこと、「困難への絶対的参加をめざす傾向」をもっていたためであると説明している。そういうことはシモーヌ・ヴェイユを聖女にまつり上げるためでは決してない。単に同情心とか感受性の鋭敏さとかに帰して片づけきれない、人間性の本然の成り立ちに根ざした深い平衡感覚が彼女には幼い頃からはっきりあらわれていて、それがことごとに世界の矛盾や苦悩に面したとき、さまざまに並外れた行動となってふき出してきたのであろう。この平衡感覚とは、彼女が用いた古代ギリシアのたとえを借りていうなら、つねに「両側に同じに傾いている秤り」であり、つねに勝利者の側を離れて敗者や弱者の方へと向かう性質をもった「正義」の感覚のことである。ひたすらに「真理」が純粋に求められているところでは、人間的な基準によっては到底評価しきれない何かしら根源と直結した「正しさ」が個々の具体的な行動をえらびとって行くのである。それは人間というものが生まれながらに根ざしている真実の基盤、人間性が究極において拠って立つことのできるもっとも深い根底とつながったものかもしれない。シモーヌ・ヴェイユの純粋さといわれるものは、こうした根基に根ざし、つねにこの「正義」感につき動かされて、ほとんど衝動的に自分の立つべき立場をえらびとってきた点にあるのだといってよいのだろう。
    −−田辺保「解説」、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『工場日記』ちくま学芸文庫、2014年、259−261頁。

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