書評:ピョートル・クロポトキン(大窪一志訳)『相互扶助再論 支え合う生命・助け合う社会』同時代社、2012年。


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 近頃では、理想などというと嘲笑われるだけだ、とよくいわれる。そして、なぜそうなのかは、たやすくわかる。理想ということばが、純情な人たちをだますのに使われてばかりきたからだ。だから、こういった反撥が起こるのは当然だし、健全だとさえいえる。われわれにしても、これだけ手垢にまみれ汚されてきたことばだから、新しい観念にふさわしい別の新しいことばに置き換えたい気持ちだ。だが、ことばはどうであろうが、事実は同じである。すべての人間が自分の理想をもっている。ビスマルクだって、やはり−−変な理想ではあったが−−「血と鉄」に象徴される統治機構という窮極目的をもっていた。どんな俗物でも、いかに低いものであっても、自分なりの理想をもっているのだ。
 しかし、こうした人たちとは別として、より気高い理想を胸に抱いた人間がいるのである。獣のような生活なんて、とても我慢できない。隷従、虚言、背信、陰謀、対等ならざる人間関係、そういう生活を考えると嫌悪でいっぱいになる。それでは、その代わりに、自分が隷従し、嘘つきになり、陰謀家になり、他人の支配者になることができるのか。できはしない。よりよい関係が人々の間にできてさえいれば、どんなに好ましい生活が送れるか、すでにかいま見てきているのだ。そして、自分が進んでいく道のなかで出合う人々といっしょになって、そうした関係を実現する力が、自分自身のなかに潜んでいるのを感じているのだ。つまり、理想と呼ばれるものを胸に抱いているのである。
    −−ピョートル・クロポトキン(大窪一志訳)『相互扶助再論 支え合う生命・助け合う社会』同時代社、2012年、239−240頁。

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クロポトキン(大窪一志訳)『相互扶助再論』同時代社、読了。主著『相互扶助論』を深化・発展させた論考「いま求められている倫理」「自然の道徳」の初訳、「進化論と相互扶助」「アナキズムの道義」の新訳を収録。本書は副題の通り「支え合う生命・助け合う社会」へ向けての青写真といえよう。

相互扶助とは人間社会におけるモラルの根本であるが、クロポトキンは、それを生物の生命活動の機制自体と考えたが、人間社会と同じように動物社会にも相互扶助があるのではなく、動物世界のそれに起源があると見る。相互扶助再生のヒントはここにある。


クロポトキンの人間観・生物観は、伝統的西洋近代のそれを打破するものだが、連続だけでなく断絶も認める。それが本能と意識との相違である(ここに人間の自由の原点が存在する)。ただ、本能と意識に関しても連続性を認めるから相関的といえよう。

マルクス主義に顕著に見られる機械論、還元主義、歪な因果論は一切見られない(勿論、それが「空想的」と揶揄」されるが)。しかし、クロポトキンの言説は空想的どころか、イデオロギーと訣別した生き生きとした等身大の人間の思考を認めることができるのに驚く。

「強くあれ。情と知のエネルギーをみなぎらせ、あふれされよ。そうして、君の知を、君の愛を、君の行動エネルギーをみなぎらせ、あふれさせよ。そうして、君の知を、君の愛を、君の行動のエネルギーを、広く、他者へ向かって拡張せよ!」、『アナキズムの道義』。

人間からかけ離れそれを利用する言説は全て幻像である。抽象的立場を取り下げ、自分を自分として生きていくこと。要はここであろう。所謂「爆発しろ」とは無縁である。同時代社からは大杉栄訳『相互扶助論』が刊行されており、併せて読みたい。了。







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覚え書:「書評:『労働組合運動とはなにか』 熊沢誠著 評・開沼博」、『読売新聞』2013年03月31日(日)付。




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労働組合運動とはなにか』 熊沢誠

評・開沼 博(社会学者・福島大特任研究員)
自立を求める営み


 私たち「おじさん」は、ウザイと煙たがられても、労働組合の必要性を説き続けなければなりません――。

 そんな若者・女性への思いを「主題の前置き」としつつも最終章でアツく語る労働研究の大家。「労働組合運動の復権」と題された講義を基に作られた本書は労働組合運動の歴史と現在の全体図を与えてくれる。

 地味な労役を担う大多数のノンエリート。彼ら/彼女らが労働における不当な支配や操作からの自立を求める営みが労働組合運動だという。

 その初期に位置づけられるのは19世紀半ば英国で生まれた職種別組合。熟練工たちによる労組は、企業に呑のませる「標準賃金」や失業・死亡保険制度を整えた。19世紀末には、特定の技能をもたない港湾労働者の間で「誰でも入れる」一般労組が広まり最低保証賃金や就労斡旋あっせんも制度化される。だが、労組の発展はそれへの弾圧も強化。労組専門の探偵や「警備」会社が社会主義の根と共に労組運動を潰していきもする。

 日本における労組運動も明治30(1897)年代から始まるが、会社への団体交渉やストライキはおろか、組織化自体なかなか許されない。許されたのはその後も日本に根づくことになる「縦の組合」=企業内組合。各企業の労組運動に部外者が介入しないからだ。大正期や戦後初期には激しい争議も起こったが、企業内組合の中で年功制度や労使協調が生まれていく。そして「新自由主義的改革」の中、労組組織率は下がり、駆け込み寺としての期待も失われていく。

 「ストなし万歳」の現代。格差社会の中で生まれた「しんどい思いを抱える人々」は労組運動より「(鉢巻に組合旗みたいな“いかにもな運動”には引いてしまう)普通の市民」による脱原発運動や「(とにかく左翼っぽいものを嫌う)愛国者」たちの排外主義運動に向かっているようにも見える。労組運動の再生に健全なセーフティーネットと中間団体の回復の可能性を見出みいだす著者の主張を読み直す意義は小さくない。

 ◇くまざわ・まこと=1938年生まれ。甲南大名誉教授。専門は労使関係論。著書に『働きすぎに斃れて』など。

 岩波書店 2100円
    −−「書評:『労働組合運動とはなにか』 熊沢誠著 評・開沼博」、『読売新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130402-OYT8T01039.htm








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覚え書:「今週の本棚:加藤陽子・評 『ユーロ消滅?』=ウルリッヒ・ベック著」、『毎日新聞』2013年04月14日(日)付。




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今週の本棚:加藤陽子・評 『ユーロ消滅?』=ウルリッヒ・ベック
毎日新聞 2013年04月14日 東京朝刊


 (岩波書店・1575円)

 ◇“現代のリスク”とどう向き合うか

 四年前のギリシアの財政危機に端を発したユーロ危機。重い内容を書いているはずなのに、わくわくしながら読み進められる本だ。作家の山田詠美氏がどこかで述べていた。ページをめくらせるのがエンターテイメント。ページを読む手を止めて考えさせるのが純文学。その伝でいえば本書はリスク社会論のエンターテイメントといえる。

 読者に読む快楽を与えてくれる理由の一つが、達意の訳者・島村賢一氏の技に負っているのは間違いないところだろう。いま一つは、著者が、一見異なった事象の背後に潜む構造上の共通性を読み手に示してみせたからだろう。一過性の知的興奮が持続的な理解へと高められたとき、ひとは愉(たの)しいと感ずるものだ。さらなる愉悦は、ミュンヘン大学社会学を講じ、チェルノブイリや福島の過酷災害について時宜に適した発言をおこなってきた著者が、「制御が利かなくなった近代というもの」について腰を据えて論じ、なおかつ、希望のもてる未来のシナリオを指し示してくれたことから生まれる。成熟した大人の専門家が絶望していないとき、ひとは安心してまどろめる。

 近代とは何かを考えてきた学問の方法に社会学がある。評者が専門とする歴史学などは、何をもって近代の画期とするかを考え、共同体の解体、身分制の解体、市場を軸とした再生産などを、その答えとしてきた。リスク社会学が対象とする時代は、人間社会の成熟とともに著しい進歩をとげた経済=技術活動によって、地球上のすべての人々にとって安全地帯といえる場所がなくなった現代である。

 普通の人々にとって、その複雑な稼働システムなど知るよしもない原発は、爆発しないとは言い切れない。金融工学によって精緻化された金融市場も、いつ暴落するかわからない。このように、仮定としてのカタストロフィを予期しつつ生きねばならぬ時代が現代社会にほかならない。

 テロや環境危機(原発事故を含む)などの現代のリスクは、ある意味ですべての人々を公平にグローバルにのみこむ。そのようなとき、従来型の国民国家単位での政治によって国家が地球規模のリスクを回避することはできない。国内政治/国際政治という区分けが無意味となる社会となってしまえば、人々は不断に「自分の生活と、世界の他の地域における他者の生活との不愉快な関係」を日々体験せざるをえなくなる。ここに、ベックが新たな責任の共同体の可能性をみる根拠がある。

 たしかにユーロ危機は、ギリシアの経済的運命がドイツ連邦議会の決定に左右されてよいのかといった、民主制の根幹にかかわる深刻な問題を欧州全体につきつけた。一方、スペインなどの南欧諸国が抱くドイツ像は、「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」手前勝手な国、というものだろう。対立は根深い。

 ただ、カタストロフィの予期が、公衆に共有されるようになれば、変化は案外早いのかも知れない。各国憲法の保障する議会の予算議決権や国家による銀行への監督権そのものが、何らかの欧州連合機関に移譲されるところまで行くのは困難にしても。ベックは明るい未来像をヘーゲル的シナリオと名づけた。

 だが、反対に転ぶ可能性も捨てきれない。カール・シュミット的シナリオと名づけられたそれは、リスクの脅威が全権委任による政治的怪物を生み出す未来像となっている。ドイツが負わされた歴史的な責務は今回も重い。(島村賢一訳)
    −−「今週の本棚:加藤陽子・評 『ユーロ消滅?』=ウルリッヒ・ベック著」、『毎日新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130414ddm015070030000c.html







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