病院日記(3) 洗う−洗われる 蜘蛛の糸の如き必然の対峙




病院仕事(看護助手)の介助入浴の見学を先日しましたが、昨日、実践に投入されました。先日の雑感→ 病院日記(2) アガンベンの「剥き出しの生」とレヴィナスの「倫理」より - Essais d’herméneutique 患者さんは全てを委ねざるを得ない点に「剥き出しの生」を痛感しましたが、実際にやってみると、そうなのだけど、てきぱきとやることができました。

てきぱきというのは、実際に洗わせて頂くと、構えた以上にすんなりできたことに驚き(但し、女性の髪をドライヤーで乾かすのはものすごく難しかった)。ただ、同時に、人工呼吸器や様々な管をつけた患者さんも含まれますので、結構、神経を使ったので、時間はあっという間でしたがもの凄い疲労。

入浴介助しながら、痛感したのは、洗う−洗われるは、(僕たちは)仕事−(患者さんは)必然(=してもらわざるを得ない)という……それは、蜘蛛の糸のような、ほんとに薄い糸……相互の信頼関係?のようなもので結ばれたうえに、成立しているのだなあとも思いました。

今日は、若い男性の看護士さんとペアを組んで20名近くの患者さんのお世話をさせて頂きました。仕事なので、どんどんやっていきますが、先の「剥き出しの生」を実感しつつも、やっぱり「さっぱり」すると患者さんたちは「生き返る」んです。毎度真剣勝負になるのですが、がんばろうと思います。


僕は、配膳と入浴介助で「のみ」患者さんと関わるのだけど、四六時中関わる看護士さんは、凄いと思った。下の世話から看護まで。それから「ねぎらう“声”がけ」がすごい。勿論、仕事だろうけど、「このシャンプー、いい香りですね♪」なんて、僕にはなかなか出てこなかった。凄い人たちだと思った。










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