覚え書:「ストーリー:奔走する先駆者の1・17 裸足のボランティア」、『毎日新聞』2015年01月18日(日)付。

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ストーリー:奔走する先駆者の1・17(その1) 裸足のボランティア
毎日新聞 2015年01月18日 東京朝刊

(写真キャプション)犠牲者の冥福を祈り、被災した人とろうそくに灯をともす被災地NGO恊働センターの村井雅清さん(右)=神戸市兵庫区で17日午前5時46分、三浦博之撮影


 ぽっ、ぽっぽっ、と家々の照明が瞬き、夜明け前の街に浮かぶ。いつもの土曜の朝より少し早い。阪神大震災20年の被災地に「1・17」を告げているようだ。この朝、神戸市兵庫区の非政府組織「被災地NGO恊働センター」の事務所で、ささやかな慰霊祭が営まれた。午前5時46分。中庭に立つ高さ2・3メートルほどの聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)像の前で恊働センター代表の村井雅清さん(64)はスタッフら約70人と手を合わせた。

 ろうそくが像の台座の碑文を照らす。こう刻まれていた。<一面火の海と化し、その焼け跡には、手にした鍋に母親の骨を拾う少女の姿があった>。在日外国人を含む6400人超の死者、仮設住宅内での孤独死、復旧復興過程での関連死……。すべての死者を追悼しようと七回忌の2001年1月に建立された。

 1995年1月。地震発生直後から救援に駆け付ける市民の大きなうねりが起きた。後に「ボランティア元年」と呼ばれるその年、被災地で137万人以上が救助や救援活動をし、約7割は初心者だった。

 当時44歳。靴職人だった村井さんも初心者だった。市内にあった自営の靴工房が被災し、震災翌々日から知人が運営する保育園に出向き、災害ボランティアに身を投じていた。公園には行き場を失った被災者らが身を寄せていた。

 ジーンズにサンダル履きの姿で炊きだしや物資配給などに奔走する姿はいつしか「裸足の支援者」と呼ばれるようになった。

 この20年、ほとんど休みもなしに内外の災害被災地の救援に奔走してきた。地区防災計画学会会長、室崎益輝・神戸大名誉教授(70)は村井さんをこう評す。

 「現場で被災者の表情やつぶやきを全身で受けとめ、課題や支援の鍵を直感的にすくい取る。災害ボランティアの先駆者でありながら、こだわり、問い続けている。ボランティアそのものといってもいい」

 阪神大震災以後、繰り返す災害に対応しようとボランティアのマニュアル化が進んだ。だが、節目の20年に村井さんは言う。

 「マニュアルばかりにとらわれると、想定できない事態を切り捨ててしまう。ボランティアは『何でもありや』がええんです」

 「職人」と呼ばれるパイオニアの軌跡を追った。
    −−「ストーリー:奔走する先駆者の1・17(その1) 裸足のボランティア」、『毎日新聞』2015年01月18日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150118ddm001040108000c.html

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ストーリー:奔走する先駆者の1・17(その2止) 支え合いの連鎖
毎日新聞 2015年01月18日 東京朝刊

(写真キャプション)電話は夜遅くまで鳴り続ける。各地の災害現場に派遣されているスタッフとの連絡に追われる被災地NGO恊働センター代表の村井雅清さん=神戸市兵庫区の同センターで

 <1面からつづく>

 ◆災害ボランティア、先駆者の20年

 ◇格差、差別への憤り

 僧侶の読経が響く。1月5日、神戸市兵庫区の「被災地NGO恊働センター」の事務所。片隅にある祭壇を向き、代表の村井雅清さん(64)は数珠を手のひらに包み、祈る。年初の活動は、ある被災者の月命日の供養で始まった。

 阪神大震災から約2年半後の1997年6月4日のことだ。神戸市西区の仮設住宅で1人暮らしの60代後半の男性が亡くなった。災害公営住宅に当選し、入居を待っていた。いまわの際まで世話をしてきた一人のボランティアスタッフの名を呼び続けたという。当時、身寄りがどこにいるかが分からず、亡きがらを引き取ってボランティア葬を営んだ。以来、月命日の前後に、故人をしのぶ。

 読経では亡くなったスタッフやボランティアの先輩、東日本大震災の犠牲者についても読み上げられた。開いた扉から聖観世音菩薩(ぼさつ)像の背後に立つザクロの木が見える。一羽のヒヨドリが、ぶら下がったまま朽ちた実をついばむと甲高い鳴き声を響かせて飛び立った。

 事務所は下町の古い木造平屋を98年春から借りている。供養を終えた村井さんはほっとした表情で言う。「20年、ですね」−−。

 あの日の朝、靴の販売のために深夜バスに乗り、東京駅に着いた。構内の異様な雰囲気で大地震を知った。電話で家族の安全を確かめ、帰路の段取りをした。新聞の号外の写真は、見慣れた神戸・長田の街が黒煙に包まれる光景を伝えていた。鉄道は止まっており、深夜バスやタクシーを乗り継ぎ、神戸に戻ったのは翌日だった。

 あくる日、街に出た。すれ違う知人らからは口々に「大丈夫か」「家族と連絡がつかへんねん」と声がかかる。自営の靴工房はグシャグシャ。周辺はくすぶり続けていた。知人が運営する保育園に立ち寄ると泣き崩れる被災者たちがいた。自然に「何でもええから手伝いますよ」と声をかけていた。やがて全国からの救援物資が園に届き始めた。知人の祖父と孫が犠牲となり、頼まれるままに大小のひつぎを運んだ日もあった。若者らが結集し始めていた。調整を任された村井さんはいつの間にか保育園を拠点とするグループの仕切り役になっていた。公園や駐車場、壊れた家など避難所以外で寒さをしのいでいる人たちが気になった。支援からこぼれ落ちそうな被災者を中心に物資を配るなどし、抱える課題を聞いて回った。

 震災約1カ月後、園再開を前に、拠点を近くの公園に移してテント暮らしを始めた。なぜか他の団体などに受け入れを拒まれた若者らが多く集まった。元暴走族、不登校の中・高校生や大学中退者、70歳目前の女性もいた。村井さんらは全て受け入れた。「はじき出された経験を持つ人間こそ、目の届きにくい本当に苦しむ被災者の痛みに気づき、寄り添うことができる」。そして誇りを持って「不良ボランティア」と呼んだ。「ある時は型破りで社会のルールからもはみ出さないと本当の支援にたどり着かない。その期待を『不良』に込めたんです」

 震災20年の年明け。成長した「不良」たちが訪ねてきた。10年ぶりに村井さんに会った高須賀裕清さん(34)は当時グループ最年少。神奈川県から来た不登校の中学生だった。「村井さんは説教じみたことは口にしなかったな。居心地が良かった。被災者、仲間たちとの経験がいま、人と向き合うなかで役に立っていると思うよ」。高須賀さんは5年の活動の間に、中学を卒業し、いまではコンサルタントの仕事をしているという。

(写真キャプション)靴職人時代、村井さんが水俣病被害者のために製作した靴型。「宝物やね」と言った

 昨年末、事務所に行くと、村井さんが一組の靴型を見せてくれた。樹脂に紙のように薄くすいた革を幾重にも重ねて形を整えたものだった。「靴職人時代の証し」。生まれながらに言語機能や手足に障害を負った胎児性水俣病の坂本しのぶさん(58)の靴型だった。震災のさなか、保管していた靴型はすべて、暖をとるための燃料としてくべられたはずだった。だが、この一組だけがどういうわけか手元に残った。「宝物やね」と言った。

 坂本さんの足は外側から着地していた。医学事典で病状の特徴も学び、どうしたらよりまっすぐに歩けるかを考えた。「外側の靴底を厚くすることでなめらかに一歩を踏み出せるんですね」と自らの靴を手にして説明する。ベージュの革を張り、履きやすいようテープを使った。「履いた時、うつむきながら笑顔をみせてくれました。歩く姿が変わったと聞き、うれしかった」

 港湾労働、廃品回収など職を転々とし、地場産業のケミカルシューズ工場でも約15年働いた村井さんにとって靴職人は41歳で出会った「天職」だった。92年、市内に工房をこしらえ、病気や義足などを理由に既製品が履けない人たちに向けた「ひとつだけ」の靴作りに没頭した。「医者の問診みたいな作業です。靴を作るには生活や背景も知らなきゃいけない。仮縫いをして1カ月履いてもらい、癖を見て調整していくんです」

 村井さんのボランティア活動の信念は「一人のために」だ。その原点は、この一組の靴型に込められているように感じられた。

 神戸市兵庫区の下町の長屋に生まれた。長兄は栄養失調のため2歳で死亡。上に姉2人、下に妹1人。父清之助さん(77年に73歳で死去)は造船業工員として働き、母ちよさん(2002年に88歳で死去)は内職をしていた。中学生時代は朝夕の新聞配達、県立兵庫高校進学後も牛乳配達を続けた。給料袋の封は切らずに母に渡した。苦労する両親を見て社会の格差や差別への関心は自然と高まった。同級生の多くが進学する中、建材店に就職した。

 ちょうど「公害病」という言葉が世で使われ始めたころだった。71年の正月。友人2人と勤め先の車を借りて熊本県水俣市に向かった。水俣病被害者に会うためだった。最初の出会いは胎児性水俣病と診断されていた故上村智子さん、当時14歳だった。「なんでなん」と、水俣病がもたらした不条理な現実に憤りが募った。だが、「寝たきりでした。どうしていいか分からず、うろたえました。その時決めたんです。関わりをもった以上、水俣公害問題から目を離すまいって」。

 盆や年末年始などの連休を使い、水俣に通い続けた。他の社会問題への関心も膨らんだ。ある社会派作家の講演会に出かけた日、受付に座る小学校時代の同級生と出会った。妻麗子さん(64)だった。交際してから、社会問題について議論を繰り返した。ある夜、国鉄の高架下で酒を飲んだ帰り道、麗子さんから言われたことを時々思い返す。「あんたは理屈ばっかりやな」

 いま、実践を第一に考える村井さんは「青二才やった」と振り返る。同い年の二人は23歳で結婚。新婚旅行先は水俣だった。被害者らとの交流は今も続く。

(写真キャプション)スタッフが勢ぞろいすることはほとんどない。年末の大掃除の日、全員が久しぶりに集まり、村井さん(後列右から2人目)を囲んだ=神戸市兵庫区の被災地NGO恊働センターで2014年12月27日

 ◇マニュアル化に危機感

 昨年10月、恊働センターの事務所で開かれた勉強会。市民や学者らを前に、地元の大学生が三陸での活動について話を終えた後だった。村井さんが珍しく語気を強めて言った。

 「東日本大震災では、被災者の窮状を聞こうとするボランティアを地元自治会などが『来るな』と排除することがあった。阪神・淡路大震災でも同じ事態があったと聞く。被災者とボランティアのさらなる連携が必要だ」。村井さんの実感だ。

 2011年3月の東日本大震災。恊働センターは内陸の岩手県遠野市の借家に拠点を構え、支援活動を始めた。三陸に勤務していた私は13年冬、遠野に来ていた村井さんを訪ねた。拠点には見覚えのあるタオルが山積みにされていた。阪神大震災の被災者の生きがいと、自立支援に向けて発案された壁掛けタオル「まけないぞう」の素材だった。

 阪神大震災から1年半たったころだ。仮設住宅では孤独死が続くようになった。どうしたら防げるのか。村井さんは思案に明け暮れた。そんな折、兵庫県西宮市の仮設住宅の女性がタオルを使ってゾウの形をこしらえた。これだと思った。孤独になりがちな生活の中で、生きがいが得られ、収益は自立につながる−−。

 「まけないぞう」は阪神の被災者に広がり、そしてその種が東北の被災地でもまかれていた。けれども村井さんは浮かない表情だった。「被災者から『意見を聞いてくれない』という愚痴がこぼれる。阪神で学んだのは、被災者の声なき声をすくいとることだったのに……」

 20年前、100万人を超すボランティアが阪神の被災地に駆け付け、奔走した。後に「ボランティア元年」と呼ばれた。震災発生時の兵庫県知事、貝原俊民さん(昨年11月に81歳で死去)は震災直後から「ボランティアは財産」と明言し、その後、ボランタリー促進条例を設けた。当時の知事公室秘書課長、斎藤富雄元県副知事(69)は「村井さんはじめボランティアは、新しい世界を切り開く力を持っていた。被災者の代弁者でもあり、現場の知恵もあった。行政はどれだけ声を取り入れるかに力を注いだ」と振り返る。

 だが、「元年」以降、受け入れ態勢や作法などボランティアに対するマニュアル化が進んだ。村井さんは言う。「マニュアル化が東日本大震災後のボランティア自粛の動きにつながったのではないか」。災害対策基本法に明記されるボランティアの「その自主性を尊重しつつ」の文言がなおざりにされていると感じる。

 苦しめることがもう一つある。災害のたびに耳にする「混乱を助長した」「活動は無秩序だった」という根拠のない批判だ。「現場の被災者からそんな声は聞いたことがない。納得できない。理由を解き明かしたい」

(写真キャプション)豪雨に見舞われた兵庫県丹波市で、村井さんらスタッフは田んぼに流出した土砂を取り除く作業にいそしんだ=2014年10月12日

 村井さんの関心は世界に広がる。ロシア・サハリン大地震発生(1995年5月)以降、海外の被災地救援も続けてきた。02年1月17日、NPO「CODE海外災害援助市民センター」を組織し、事務局長を引き受けた。CODEは「市民が立ち向かう海外災害援助」の意の英語の頭文字。「被災地KOBEの市民力を結集して助け合いの文化を確立したい」という願いが込められている。02年8月、内戦や米英軍による空爆、3年以上も続く干ばつに苦しむアフガニスタンを訪れ、ブドウ畑再興プロジェクトを始めるなど、昨年末までに村井さんが赴いた海外救援現場は30カ所以上になる。

 大切にしている言葉がある。阪神大震災3年後のことだ。現場で作業をしていると、曹洞宗僧侶として社会活動に尽くした有馬実成(じつじょう)さん(00年に64歳で死去)がこう話しかけてきた。「被災地で活動するボランティアを見ていたら、菩薩の姿と重なるんですよね」

 「その時、思いました。ボランティアってすごいねんなあ。奥深く、道を究めなあかんのやって」。同時に、ボランティアやNGOで生きる覚悟がいかに難しいかを改めて自覚した。3年前、還暦を機にCODE事務局長を退き、この春には恊働センターの代表も後進に任せる考えの村井さんはいま、その心を次世代に伝えたいと思っている。

 20年にわたる活動で心してきたのは、寄付金の使途の透明性と公からの独立性だった。恊働センターの場合、賛同者の会費と寄付が主な財源。15%はスタッフの生活費や事務所家賃などの間接経費。85%は活動資金だ。「ぎりぎりです。お金の理解がきちんと進まないと、ボランティアは本当の意味で社会に信頼されるものにはならないですよね」

 昼間、家族と過ごすのは年に数日しかない。麗子さんは言う。「何でも一生懸命は変わっていません。3人の子どもも今は父を理解しているはず」。照れるように笑う村井さんは話題を変えるように、こんなことを口にした。

 「そうや。この間、講義した神戸の私立大での授業でね、『(約20年前の)ボランティア元年って何やろか?』って話したんです。そしたら、当時を知るよしもない女子学生が言うわけですよ。『自分が初めてボランティアやった時やろうし。意識した時かもしれん。人それぞれや!』って。そうやなーって。また、若い感性に教えられました」

 瞳をまあるく輝かせた。たぶん、いつも頭のどこかでボランティアのことを考えているのだろう。困った時はお互いさま。支え合いの連鎖を−−。村井さんが心に留めている言葉だと聞いた。

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 ◆今回のストーリーの取材は

 ◇高尾具成(たかお・ともなり)(大阪社会部阪神支局)

 1991年入社。広島、神戸支局、大阪社会部、ヨハネスブルク支局、三陸支援支局を経て昨年4月から現職。阪神大震災新潟県中越地震インド洋大津波東日本大震災などの災害被災地や、アフガニスタンやアフリカ各地の紛争現場も取材。2008年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。今回の取材では、写真も担当した。

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    −−「ストーリー:奔走する先駆者の1・17(その2止) 支え合いの連鎖」、『毎日新聞』2015年01月18日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150118ddm010040036000c.html





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